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退職した4人の銀行員による4つの真実

褒められもせず苦にもされず

学生時代に感じた違和感はやはり違和であった。

 「今まで何人と付き合ったことある?」と聞かれた時、

果たして中学時代に数ヶ月、もしくは数日だけ付き合った元カノを数に含めるべきか否か。

 

恋愛などと決して呼ぶことのできない初々しすぎて恥ずかしすぎる青春は、

おそらくその回答に入れるべきでない。

 

なんとなくそんな風潮が世の中にはあり、

そのせいで、いつのまにか数に入れてはいけないという幻想を抱く人も多いのではないだろうか。

 

そもそも付き合った人数が多い方がいいとか、少ない方がダメとか、

その質問をしてきた相手によく思われたいから控えめに言うとか、恋愛経験の豊富さはある種のステータスであるから誇張して言うとか、

そんな話は抜きにしてほしい。

 

本当に数に入れるべきでないのだろうか。

少なくとも当時は付き合った日数に関わらず、どれも真面目な恋愛だと思っていたはずだ。

 

以上は全くの余談である。正直、どっちでもいい。

 

 

 

私が言いたいのは、

上記のような感覚で、幼少期や小中学生、高校生の時の当時の"思考"は未熟なのもであると決めつける傾向にあるのではないか、それは間違っているのではないか、ということだ。

 

そもそもそのような傾向にあるのは私だけかもしれないが、

全人類がそのような傾向にあることを願いつつ話を進める。

 

なぜこんな話になったのか。

近頃、生活環境の変化から、改めて何かを発見する機会に恵まれている。

その"発見"の瞬間、「あ、これ学生時代に考えたことあるな、高校生の時だっけか?」

みたいな感覚が多々あったのだ。

 

ここではその一例を紹介したい。

 

 

 

 

 

私たちの祖先は紀元前何万年も前に認知革命を起こし、地球唯一のホモ属となった。

そう、ホモ・サピエンスだ。

ホモ・サピエンスは想像という能力を手に入れ、他の生物とは一線も二線も画す協力体制を築き上げ、生物ヒエラルキーの頂点に立った。

社会を生み出し、貨幣を取り入れ、文字や国、会社を作り出した。

今やホモ・サピエンスは他の生物と何線を画しているのか数えることができない。

 

人間に生まれて本当に良かった。もし神戸の農場で牛として生まれていたら私は今頃鉄板の上だろう。

牛は幼い方が肉が柔らかい。だから雄として生まれた子牛は、乳の出る雌と違い長くは生きられない。すぐに神戸牛なのだ。

 

認知革命以降、私たち祖先の偉大なる遺産、例えばお金や会社、国なんかは今現在当たり前のように私たちの生活に根付いている。お金という概念がなければこの世は混乱に陥るだろう。

だがここで、いつもより少しだけ俯瞰力をあげてほしい。

お金も会社も国も社会も、よくよく考えると実体はない。我々はあくまでその概念を共有することで生きているのだ。

お金を理解できない人は窃盗罪で捕まり、

会社を理解できない人は即解雇、

国を理解できない人は密入国者となり、

社会を理解できなければ宇宙人だ。

私たちはそんな架空とも言える概念の中で生きていると言える。

 

そんな架空を日本の一般人レベルにまで落とし込んでいくと、「働いてお金を稼ぎ自立することが正義である」といったものにたどり着く。

簡単にいうと、そうでない人は社会の中でより宇宙人寄りになるということだ。

つまり、日本社会の中で冷ややかな目で見られないためには、人間が生み出した国という架空の概念の中で、架空の会社というものに所属し、これまた架空のお金を稼がなければならないわけだ。

なるほど、少し世の中がチープに見えてくる。

けどこれは別に日本を、ひいては人間を否定しているわけではない。だったら、アマゾンで自給自足の生活でも送ってろ、と言われてももうできないし。

だが違和感はある。人間が作り出した架空に縛られて生きていく。

自由な時代に生まれてきたはずが、気づけば周囲は私たちの先祖が作り出した架空だらけだ。

その中で、やはり無人島ですら生きていくことはできないので、なんとか社会との折り合いをつけ、気ままに生きていくよう意識しなければならない。

 

そんなことを考えていた。

 

あれ、なんかこの感覚前にもあったような、、、

 

 

そう、高校生の時だ。

友人と『働くとは』みたいなテーマで話していた。

当時の私たちの意識に、大学を卒業して働かなければならないという考えが間違いなくあったのだろう。

誰かが「働きたくねーな」と言ったのがその証拠だ。

「何のために働くの?」

「お金でしょ」

「だったら死ぬほど金があったら働かないかな?」

 

一瞬間が空いた、気がする。

「多分働くな、じゃないと人生暇じゃない?」

 

 

高校生の私たちには架空のインプット量が少なかったのだろう。

会社に勤めて自立しなければならないといった架空はインプットされていなかった。

なぜか働かなければならない、その程度の幻想しか頭にはなかった。

「多分働くと思うんだよね、じゃないと人生暇じゃない?」

きっと高校生の私たちは働く意味を自分たちなりに見つけ出そうとしていたのだろう。

社会に出た時宇宙人に見られないためではなく、もっと他の何か、を。

 

 

 

 

なぜ働かなければならないのか、生物と人間(幻想の世界)とのギャップに疑問を馳せるのは至極当然の流れだ。

 

大学を卒業し、社会に出た。就職をした。

気づけば膨大な量の架空が頭の中にインストールされ、いつの間にか働く意味を考えなくなっていた。

高校生の時に感じた違和感は、よくわからないストレスというものに形を変え、ただただ膨張していく。

ストレスの奥底にある違和感はもう感じることができなかった。違和感の存在すらなくなっていた。

色々とタイミングが合って会社を辞めた。

ストレスという風船が破裂して中から出てきたのは高校時代の記憶の断片だった。

 

 

 

 

架空がインストールされる前の学生の思考は、思っているよりも重要であることがしばしばある。

 

どうやら思考の重度は年齢に寄らないようだ。