退職した4人の銀行員による4つの真実

褒められもせず苦にもされず

「視野を広げる」の間違った認識 (理論編)

そういえば、最近新聞を読まない。

テレビは、全く見なくなってから随分と時間が経つ。

雑誌も元々読まない。

就活の際、出版社の面接でそれを言って落とされた。

ネットのニュースも主体的にはチェックしない。

本も実は、数える程度しか読まない。

 

常に色んな種類の情報に触れ、様々な知識を身に付けることが良しとされる今の社会では、間違いなく自分は怠け者の部類に入るだろう。

 

けれども、まわりからの評価は「お前は何でも知っている」「どうしてそんなに色々詳しいのか」といったものが多い。自分でも客観的に見て、そう思う。

 

なぜなのか。

 

答えはすごく単純で、世間で良しとされている「視野を広げるためにあらゆる情報をインプットする」という行為が間違っているからにほかならない。

 

僕はこの数年、必要のない情報や人間関係をできるだけ遠ざけることに神経を使ってきた。自分のキャパシティを遥かに超える情報と無数にある出会いの場に飲み込まれ、知らぬ間に身動きがとれなくなってしまい、アイデンティティが薄まっていくのがとても嫌だったからだ。

 

そうやって距離をとることで、その魑魅魍魎とした世界とは違う位置ベクトルに確かに存在することができ、そこに少しの余裕ができることに気が付いた。ユートピアとまでは言わないが、オアシスみたいなものだ。その中で心ゆくまで自由に発想することで、関心のある事柄を発見し、その好奇心が続く限り調査、検証する。一通り満足すると、また違う関心事が見つかり、再びじっくり時間をかけて深掘りしていく。時には足を運んだりもする。

 

そうこうしている内に、人とは違った方向のかなり深い知識や経験が蓄積されていき、さらにそれらがどんどんリンクしはじめ、日々新聞を読んでいるサラリーマンよりも物知りで実用的な人間になる。

 

やりたくないことをやらず、気ままに生きているだけなのだが、実はそれが結構大事なのかもしれない。

 

そもそも、これだけ膨大な量があって、質のいいものも悪いものも混在している現代社会において、特定のソースから無作為に情報をインプットする行為は非常に非効率的だと言える。

むしろ、対価(時間・費用・メンタル)を支払ってまで得た情報を無意識的に「正しい」と信じることによって、余計なバイアスがかかってしまい、自由な発想を妨げることにもなりかねない。

また、一般的なメディアの流している情報は、確かに間違っていないが、そんなに密度の濃いものではないし、そもそも多くの人の目に届いており、それを知っていることの希少価値はほとんどない。

 

東芝の景気が悪いことが分かるのはいいが、それが分かってどうなるというのか。誰もが知っている、その当たり障りのない二次的、三次的な内容は本当に必要な情報なのか。それを知らないことで相手の機嫌をそこねる可能性があるから、とにかく知っておかないといけない、みたいな仕事をしているのなら、そんな仕事はそのうちなくなるから辞めたほうがいい。

そしてその時、必死でインプットしていた情報など、仕事を辞めればすっかり忘れてしまう。

 

であれば、最初から覚えないようにした方が賢明ではなかろうか。

 

それよりも、時間を忘れて熱中してしまうほど面白いものを見つけることに労力を費やし、それが見つかった時に熱中することができるような環境作りに神経を使ったほうがよほど生産的である。

 

 

話をまとめよう。

 

よくわからない焦燥感にかられ、「見ないと」「読まないと」というモチベーションで行う、間違った情報収集はやめるべきだ。

無意識的に時間と脳の容量が奪われ、無意味な安心感を得るだけである。

それらをできるだけ排除して、落ち着いてフラットに考えられる余裕を作り出そう。

 

そこで面白いと感じたことを気の向くままに、心ゆくまで調べつくし、何なら実践していくことができれば、自然とあらゆる分野の知識が蓄積され、本物の「視野の広い」人間になることができるはずだ。