退職した4人の銀行員による4つの真実

褒められもせず苦にもされず

あなたの脳内処理速度、遅くないですか?

目の前に課題がやってきた。

その課題にあなたは対処しなければならない。

あなたはその対処法を決定するまでにどれほどの時間が掛かるだろうか。

 

ここで問いたいのは課題を解決するのに掛かる時間ではない。

課題の解決策を決定し、行動に移すまでの時間である。

 

もちろん、それは課題の難易度と個人の性格に依存するケースが多い。

 

定食屋で今日のランチを決めるのと、北朝鮮のミサイル問題についてレポートを書くのとではわけが違う。

前者の場合、ランチを決めるために行うことは席についてメニューを見ることただそれだけであり、後者はメディアから情報を集めるのか、はたまたなんとかして北朝鮮に入国し現地調査を行うのか、まずはそこを決めなければならない。

また、個々の性格にも左右される。慎重派の人は自身の最善解を出すまでに頭の中で何度もシミュレーションするかもしれない。「私の体が今、誠に欲している食材は何だろうか」と。逆に、アクティブな人は何も考えずに行動し始めるかもしれない。「行ったことないし行ってみるか、北朝鮮」などと周りからは冗談なのか本気なのか検討のつかない発言をする。

 

つまるところこれは全くケースバイケースで、早いとか遅いとかを決める普遍的な判断基準は存在しない。

 

 

けれど近頃、「仕事のできる人ほどレスが早い」みたいなことがよく言われている。

 

どうゆうことなのだろうか。

 

 

 

ランチから戻り、席に着いたあなたの元に一通のlineが届く。大学時代の友人からだ。内容はいたってシンプルで、今夜飲みに行かないか、というもの。互いに特に用事があるわけではない。あなたは考える。今日は何時に退社できるだろうか、帰ってからしなければならない仕事はあるか、今日上司に誘われる可能性はないだろうか、そもそも私は酒が飲みたいのか、今日は地上波でスターウォーズだ、でもあいつから誘ってくんの珍しいな、というかやっぱ酒のみたいな、てか仕事だりー。

そして'未読'のままあなたは仕事へ戻る。

 

 自身を含めた複数のステークホルダーの最適解を瞬時に出すのはなかなか難しい。

 溢れ出てくる欲求と日常生活の折り合い、友人への配慮、社会的地位の保守と上司への媚売り、ヨーダ、ただの友人からの誘いなのに考えることは意外と多かったりする。結果、結論を出さぬまま、こんなことに時間をかけている場合でない、と本能的に思考を停止させてしまう。

そう、仕事のできない人の典型例だ。

 

 

ではこの場合、レスポンスの早さに命をかければ仕事のできる人になれるのだろうか。

答えは否である。

 

 

何も考えずに友人へ返信するのではなく、色々な事象を想定しながら最善の返信を行う。

友人への返信に時間をかけるより仕事を優先する。

何も間違っていない。その結果、メールの返信がペンディングになってしまったとしても、とてもロジカルな結果だ。

 

 

 

問題は、瞬間的に最善の解を導き出せない脳内処理速度の遅さ、である。

ただ、この点に関しても、冒頭で述べたように、仕方のない部分がある。

例えば、慎重派の人は行動派の人より計算量が多かったりする。行動派は飲みにいきたいかどうか、という式のみを解くのに対し、慎重派は上司への断り方、という式まで解かないといけなかったりする。

加えて、そもそものスペックも様々だ。

だからやっぱり、個人差がある。

 

 

じゃあ「仕事のできる人ほどレスが早い」、は嘘なのか。

これまた答えは否だ。

 

 

 

実は計算量に関わらず、脳内処理速度を爆速的に上げる方法が一つある。

 

それは、サーバーを回し続けることだ。

 

友人からのlineが来るたびに、

自分がどれほど酒を飲みたいのか、どれほど友人に会いたいのか、どれほどスターウォーズを見たいのか、

それらのパラメーターへアクセスしていては時間がかかってしょうがない。

 

つまり、友人からのlineを見る前から、自分がどれほど酒を飲みたいのかはっきりさせておけばいい。

 

けど、自分がどれほど酒を飲みたいのか、この数値は絶えず変化する。

だから、サーバーを止めてはいけない。

 

 

仕事のできない人は、課題が目の前に来てからサーバーをオンにする。

それから各パラメーターの値を算出し、そこからやっと課題に関わる計算を行っていく。

対して、サーバーを回し続けることができれば、パラメーターは瞬間的に引っ張って来ることができるので、最終的な計算を行うだけでいい。linenの返信内容も即刻算出されるというわけだ。

 

 

この観点を持って、仕事のできる人を見てみてほしい。

彼らは例外なく、サーバーが回り続けている。

そして、それが確認できたら、あなたも是非、サーバーを回し続けてみよう。

 

何をやっても長続きしないあなたが、まずすべきこと(最終編)

思いの外、話が伸びてしまい、謎の最終編である。

 

前回、継続とはそんなに気合いを入れてやるものではない、という話をしたが、

taisyokutaiken.hatenablog.com

 

それを掘り下げるために、逆説的に継続できない理由を考えていきたい。

 

 

①自分が何かを継続できる環境にない

朝、満員電車に揺られながら何か他のことに集中する。

サラリーマンとしてフルタイムで働きながら、帰宅後に仕事と同じぐらいエネルギーを消費する活動に打ち込む。

客観的に考えてみてほしい。

私には、どう見ても挫折しない未来が見えない。

むしろ、不可能に近い負荷に耐え続けることで、そこから逃げた時に開放感が生まれ、無意識的な満足につながってしまう可能性もある。

生まれてからずっとそれぐらいのストイックさで生きてきたという場合は別だが、「急に張り切る」という行為は基本的に時間の無駄である。

 

そもそも継続したいと思っていることが間違っている

達成したい目標を掘り下げていくと、根源的に自分がやりたいと思っていることではなかった、というパターンだ。

例えば、銀行員が税理士になりたいという目標を立てたとする。

銀行でせかせか働くより、せっかく金融の知識があるなら、独立して自由気ままにやれる仕事がしたい。

そのために、コツコツと税理士試験の勉強を継続しなければならない。

そう思っていたとする。

けれども、税理士になりたい理由が、自由気ままに仕事がしたいからというものであれば、自分の経験などドブに捨てて、エンジニアになった方が良い。

銀行で働いた経歴など、それほどアドバンテージになるわけではない。

ふらっと旅に出た時などに、冷静になり、それに気がつくケースだ。

 

①と ②どちらも一緒に解決すれば、本当にやりたいことを継続できる。

ポイントは、どちらも継続したいこととは関係のない方向で、意図せぬ負荷がかかっていることだ。

そして、その負荷は努力次第で減らせる。

 

そのためには、徹底して自分が無意味だと思っていること、自分の意に反することを解決しようというマインドを持つべきだ。

自分の心の声に素直になるべきだ。

 

いちいち昼ごはんを考えるのが面倒だから、とにかくサイゼリアがあればそこに行くと決める。

満員電車には死んでも乗りたくないから、大金をはたいてでも徒歩通勤にする。

朝決められた時間に出社するのが嫌だから、もっと自由のきく職場を探す。

もしくは上司と戦って、合理的に押し切る。

 

別に何だっていい。

 

「しなくても良いけど好きだからしてきた」という次元を目指すべきなのはもちろんだが、その前に「そんなの面倒だしやりたくない」という心の声を拾うことから始めた方が良い。

それこそが、注力すべき問題だ。

 

 

全然勉強している風に見えなかったのに、しれっと一流大学に合格していたアイツは、たくさん参考書を買ってせっせと勉強していただろうか。

いつも何かに追われたような、切迫した顔をしていただろうか。

 

きっとそうでなかったはずだ。

 

涼しげに生きよう。

 

それが継続への近道だ。

何をやっても長続きしないあなたが、まずすべきこと(後編)

前回、「継続」ということをテーマに、何をやっても長続きしない人の例を扱った。

taisyokutaiken.hatenablog.com

 

ジャンルは異なるにせよ、多くの方はこの例と類似の体験をしたことがあるのではなかろうか。

何を隠そう、私自身もその中の一人だ。

内に秘めたエネルギーはかなり大きいものの、やることなすことなかなか継続できずに、中途半端な「頑張りたい願望」だけがいつも残っていた。

 

ビジョンだけが先走りする”意識高い系“にだけはなりたくない、と常日頃から思っているが、あるいはそうなってしまっていたのかもしれない。

 

今でもやりたいことを100%継続できているかというと答えは否だが、少なくとも「継続できないこと」に対する悩みはなくなった。

その結果、昔に比べて飛躍的に成長速度が向上し、なんとなく立てた目標をいつのまにか達成してしまっていることも増えた。

悩み自体は尽きる気がしないが、一つ上の次元で悩めているという実感はある。

なので、ここに書き記そうと思う。

 

一つ断っておきたのは、ここでいう継続と習慣は別物であるということだ。

朝起きたら顔を洗い、ご飯を食べ、歯磨きをし、着替える、みたいな感じで無意識に行なっていることと、TOEICのスコアを上げるために毎日英語学習をすることを並列に捉えてはならない。

あくまで目標を達成するまで、期限付きで正しい方法論を実践し続けるということを、ここでは継続という。

今回取り扱う話は、継続するための方法論であって、これを読んでも習慣化することはできないので、誤解なきように。

 

では、継続するための秘訣は一体何なのか?

 

結論から言ってしまうと「頑張ろう」「続けよう」という強い意志を持って取り組まないことだ。

継続とは、むしろ「暇だし、強いてやるならこれかなぁ」くらいのテンションで行うものである。

そういった認識を持てるとなお良い。

 

頑張らないことだって?

 

意味が分からない?

 

では、もう少しお付き合いいただこう。

また、次回。

教えましょう、上司に怒られた時の対処法。

上司に怒られる理由は色々とあるだろう。

 

遅刻、忘れ物、準備不足、説明下手、報告漏れ、情報漏洩、などなど書き出せばキリがない。

 

ここではそれらの理由で上司に怒られた際の合理的な対処法を教示したいと思う。

 

 

ただし、必ずしも普遍的な解でないことは先に述べておく。

 

例えば全く同じプロダクトをあなたとあなたの競合他社が顧客に同条件で提示し、競合他社の担当者に人間性という面で劣り、契約を取れなかった場合。

 

申し訳ないが、そのようなケースでは素直に怒られてほしい。

私もあなたの人間性をかばうほどお人好しではない。

 

 

以下に記すのはズバリ、'凡ミス'への対処法だ。

 

体感的に、上司を怒らす原因のほとんどがこの凡ミスである気がする。

先ほどの例のようなケースはかなり稀で、例えば勤めている会社を倒産へ導くほどの影響力を持った過ちを犯したとしても、元をたどれば'凡ミス'みたいなケースがほとんどだ。どれほど上司を怒らせようとも、原因が'凡ミス'であるのならこの対処法は有効に使える。

すなわち、普遍的な絶対解にはならずとも、かなりの範囲を網羅した大変有効な対処法なのである。心して聞いてほしい。

 

 

早くその対処法を知りたいところ、申し訳ない。

まずはなぜ'凡ミス'が起こるのかを考えたい。案ずるな、簡単に終わらす。

 

凡ミスはケアレスミスともイージーミスともミスターインクレディブルともミスペレグリンとも違う、うっかりミスだ。

自身のベストを尽くした結果、全く望んでいないのに起きてしまう、生まれ変わりでもしない限り避けようのないミス、とでも言えるだろうか。

 

 

ここにきて恐れ多い。

凡ミスとはいえども、「自身のベストを尽くした結果」、というのが重要だ。

それってもはや凡ミスじゃないじゃん、という声が聞こえてきそうであるが、この点に関しては、「常に全力で生きてくれ」、といったメッセージのみを残し、深くは触れないでおく。

 

 

お待たせしました。

上司にうっかりミスを指摘された際は、以下のように反論すればいい。

「恐れ入りますが、少なくとも私は全力を尽くしました。まずその点、わかっていただけていないのであれば、初めにあなたの管理能力を疑わざる終えません。お分りいただけた上でのご指摘であれば、無礼な発言失礼いたしました。しかしながら、加えて、凡ミスは人間のデフォルト機能であると私は考えております。つまり、凡ミスを許容できないということは、私を、ひいては全人類を、機械と見なしているのとイコールであり、簡単にいえば、あなたはあなた自身を機械であると考えている、そう判断できます。もしやあなたは、機械なのですか。」

 

これに反論できるような上司であれば、そもそも怒ったりしないだろう。

少数の上司はこれを理解し、怒りの対象がいつのまにか全人類に移っていることに気付く。さすがにキャパオーバーだ。幾ら何でも全人類を敵に回すことはできない。上司は怒ることをやめるだろう。

だが、大半の上司は理解できず、血相を変えてブチギレる。

 

その時はこう付け足せば良い。

 

「わからないでしょうか。機械が壊れた際に怒るのは理解できますか。例えば、正確性というデフォルト機能をもつパソコンが、1+1を3と出力したらどうします、それはもう一大事ですよね、怒りながらappleに電話したいただいて結構です。だが人間にその機能はついていない、むしろうっかり機能が付いている。人間のうっかりに対して怒ることは、例えばパソコンに向かって、お前はなぜ1+1を2と出力するのだ、と、そもそもの機能、さらには数学や概念、文字や言葉の恣意性に対して怒り散らかすことと同様なのです。だから、不毛な時間を過ごすのはやめて、仕事に戻りませんか。」

 

例え会社が倒産寸前に陥りうっかりミスを犯し、上司が野獣と化していたとしても、具体例を用いて説明すれば、怒りで思考能力が麻痺した上司も納得するはずだ。

ここまで言っても上司の怒りが収まらない場合は、一刻も早くその会社を辞めるべきだ。申し訳ないがその会社の人間は人間ではない、ただの獣だ。

 

確かに少々色々な面でエッジが効いているので、実際にこの手法を使うことにためらいがあるかもしれない。

されど案ずるな、私の脳内シミュレーションでは全勝だ。

 

 

 

現実世界での結果報告をお待ちしている。

 

何をやっても長続きしないあなたが、まずすべきこと(前編)

「継続は力なり」という。

 

自身の願望を叶える方法論の中で最も難しく、そして最も効果的なのは、おそらくこの「継続」であろう。

これに関して、異を唱える人はそう多くないはずだ。

もちろん、勝負するフィールドを正しく選択したり、運を味方につけたり、あるいは決断すべきタイミングを感じ取る、といった要素も重要ではあるが、最終的に「やるかやらないか」という問題からは逃れられない。

正しいノウハウ自体は世の中に溢れかえっていて、それを本当の意味で継続できるかどうかが、勝負の鍵になっている。

 

英語学習を例に挙げよう。

 

英語が上手くなりたいと思っているとする。

とりあえず本屋に行き、手頃な参考書を一冊買ってみる。

1日1ページやればいつの間にかすごく力がつく、みたいなやつだ。

最初のうちは順調に進めるが、忙しかったり面倒くさくなったりして、進まない日が出てくる。

次の日に気合を入れて前日分を終わらせていたが、それも徐々にできなくなり、いつの間にか「積ん読」になって、英語頑張りたいモチベーションだけが中途半端に残る。

 

そんな時にたまたま「聞いているだけで英語力が劇的にアップ」というCMを見て、謎のCDセットを購入する。

これなら通勤電車で聞けるし、頑張らなくても良い。

最初のうちは順調に進めるが、電車に座れる日はいつの間にか眠ってしまう。

これはいかんと思い、気合を入れて立って通勤していたが、気づけば心配事や今日の晩ご飯といった余計なことを考えてしまい、全然集中できていない。

そのうち再生するのすら躊躇するようになり、罪悪感を紛らわせるために何となく洋楽をかけてお茶をにごす。

また、英語頑張りたいモチベーションだけが中途半端に残る。

 

色々考えた末に「集中できないのは面白くないからだ」という結論に至り、洋画を見ることを思い立つ。

Googleで検索すると「洋画を見るだけで英語が話せるようになる方法」「楽しみながら英語を学習してTOEICが200点以上伸びた話」みたいなのがわんさか出てきて、俄然やる気になる。

早速TUTAYAに行って、自分のみたいDVDを数枚見繕い、帰って上映する。

これはさすがに楽しい。翌日も、もう一枚見る。

一週間で借りていたものを全て見終わり、また新しいものを数枚借りる。

また次の週までに見終わり、全て返却する。いい感じだ。

けれどもそのうち、借りても見ないものが残り始める。

何回も同じ作品を見た方が効果的だというのは知っていても、いざ借りるとなかなか再生しない。

そうこうしているうちに、借りても見ないのであればお金がもったいないと思うようになり、借りる枚数が減る。

徐々に借りることも面倒になり、みたび挫折。

英語頑張りたいモチベーションはいつからか、英語の上達方法誰か教えてくれモチベーションに変化し、外国人と話しても結局ほとんど分からないし、TOEICを受けてもスコアはそんなに上がらない現実に気がつく。

 

こんなケースだ。

 

英語学習を例に挙げたが、そんなに意識の高い目標でなくてもいい。

「GW中にスターウォーズを全部見る」とかでも良い。

それでも結構難しい。

なんでも良いが、もしそういったことを継続したいと思っていで、出来ていない場合はそもそも「継続」に対する考え方が根本的に間違っている可能性がある。

 

長くなったので、継続する方法論についての詳しい解説はまた次回。

サイゼリアの素晴らしさについて語らおうじゃないか。

あなたはサイゼリアを知っているだろうか。

そう、誰もが一度は利用したことのあるあのイタリアンファミリーレストランチェーンのことだ。

 

私の場合、気の知れた同僚と簡単なミーティングをする際にはサイゼリヤで行うと決めている(正確には同僚が決め、まんまと乗せられた)。

 

 

いい年をした大人がサイゼリヤなんて、なんてみすぼらしいんだ。

 

読者の皆様は今まさにそう思っているだろう。

だが、安心してほしい。読み終わった頃にはぐうの音も出ないはずだ。

 

 

サイゼリヤのいいところその1

まず何よりも始めに出てくるのが、費用対効果である。

コスパとも言うのだろうか。

サイゼリヤではそこそこの味のパスタが400円ほどで食べることができる。お腹が空いていないにもかかわらず、パスタを頼んでしまいそうになるほどのコスパだ。

このご時世、都心のパスタをその程度の価格で食せるケースは非常に稀である。

 

今まさに、読者のみなさまは、

 

なんじゃそれ、みすぼらしさ極まりない。

 

そう思っている頃だろう。

早まらないで読み進めてほしい、読み終えた頃には悶絶だ。

 

 

 

サイゼリヤのいいところ2

どこにでもあって、かつ、広い。

 

これはとても重要なことで、どこにでもあるからわざわざサイゼリヤめがけて電車に乗る必要はないし、広いおかげで入店待ちになるケースもほぼない。

このご時世、都心で予約をする必要なく、手軽に、確実に入ることができる店はそうそうない。

スターバックスを想像してほしい。スタバはどこにでもあるが非常に混んでいる。対してサイゼリヤは待ち時間ゼロでそこそこのスペースに腰を下ろすことができる。

個人経営の今にも潰れそうなカフェを想像してほしい。いつも空いており、ふかふかのソファに腰を下ろすことができる、が、サイゼリヤと違い、どこにでもあるわけではない。

 

 

サイゼリヤのいいところ3

喫煙席がある。

会食メンバーの中に喫煙者がいたとしても全く問題はない。

 

 

 

サイゼリヤのいいところ4

長期滞在しても怒られない。

 

これは2ともリンクする。サイゼリヤは満席御礼になることが少なく、そのため長期滞在も許される。

例えば200円のデザートのみで5時間滞在しようとも、店員さんは会計時に嫌な顔ひとつしない。

最近ではカフェでさえ、時間制限を設けるこの時代。

なんて優良なのだ、サイゼリヤ

 

 

どうだろう、ここまでくれば読者の8割は今すぐにでもサイゼリヤに行きたくなっているはずだ。

 

 

 

 

最後に、これを100%に上げておく。

 

上記を考慮して読んでほしい。

サイゼリヤでミーティングを行う本当の理由〉

サイゼリヤはどこにでもあるため、いちいちミーティングの場所を決める必要がない。お互いのアクセスを考えて、一番アクセスの良い駅を選ぶ。改札を出ればほらそこにサイゼリヤだ。これは非常に重要なことで、タイムパフォーマンスが限りなく最大値に近い。前述したように、店を決める時間もなければ予約をする手間もいらない、どこにでもあるから店の場所を考慮する必要もない、もっと言えばメニューが頭に入っているので道中に何を頼むかまで決められる。余った時間を他に回すことで、限りある人生を有効に使うことができる。金欠者や喫煙者への配慮もいらないので、もしそうゆうことを考慮しなければならないのであれば、捻出できる時間はさらに増える。そして何より、そうゆう心がけがミーティングには求められることが多い。たとえ1時間のミーティングであったとしても、6人集まれば6時間の機会費用が費やされている。そこを有効に使わない手はないし、そのミーティングのパフォーマンスを下げようと考える人などいないだろう。確かに実際に会ってミーティングを行う時点で効率的でない部分もあるが、それはそれ、これはこれ、だ。実際に会ってミーティングを行うことは効率性よりも重要な価値がある。だから、省けるとこは省こう、とそう言っているのだ。そうゆう観点を持っていれば、たとえどれだけ冷ややかな目を向けられようが、サイゼリヤに集まることに全くの抵抗はないし、逆にサイゼリヤほど適している場所もない。

 

 

どうだろう、そろそろ開いた口が塞がらなくなっているだろうか。

2つの職場を辞めて見えてきた理想の職場

2年で2回仕事を辞め、海外をフラフラした後に3つ目の職場で働き始めた今、ようやく「こういう感じで生きていけばいいのか」というのが見えてきた。

 

今が100%理想の環境であるのかどうかは分からないが、間違いなく状況は改善され、正しいレールに乗った感はある。

 

その感覚を、もう少し細かく素因数分解し、この満足感とも安定感ともつかぬ実感の正体を検証していきたい。

 

 

ストレスからの開放

「こんなに楽でお金がもらえる仕事はない。全然社会のためになってないけど」

 

というのが、一つ目の会社で働いていた時に感じていたことであった。

大学の部活のハードさに比べれば肉体的にも精神的にもお話にならないくらい負荷はかかっていなかったし、「まじでスゲエ」と思える人もいない職場だった。

幸い周囲には恵まれ、裁量権がある程度与えられた中で仕事ができたので、そこそこ面白いと感じることもあった。

 

けれども、それは辞めた今だからこそ言えることだとも思っている。

下らなさすぎてほとんど忘れてしまったが、本当に下らないと思うことが結構な頻度で起こり、その事実をやり過ごすための感情の処理と、その事実を共有する場から開放されるための未来の道筋の模索に相当なエネルギーがかかっていたのは間違いない。

業務もあくまで業務、というかほぼルーティン雑務だったので、それ以外の時間で色々と勉強をして自分の付加価値を高めていく必要があり、極めて非効率だった。

そういう意味ではプレッシャーとはまた別の、焦燥感や無力感からくるタイプのストレスにさらされていたといえる。

 

そこで、得たいスキルを業務として身に付けることができ、今より高い報酬をもらえ、学歴と口先だけでなんとかなるポテンシャル採用をやっている、年功序列でない生産性高めの会社に転職することにした。

 

そして、下らない人間関係とスキルアップのない仕事が原因で生じていた、大学時代とは全く異なる種類のストレスから開放された。

 

 

仕組みからの開放

二つめの会社は、想像していた通り全てがとても合理的だった。

当たり前が当たり前でない会社からやってきた身としては、いちいち新鮮で面白かった。

ただ、人数があまりに多いゆえに、全員にとっての最適解というものは存在せず、あらゆるトレードオフの中でバランスをとっていく必要があった。

そして、これも人数が多いゆえに起こりうる問題だと思うが、自分が個人として認識されていないという実感がすごかった。

 

そこそこ頑張っている一兵卒。

 

それが、この採用制度の問題点であり、限界であった。

 

また、これもポテンシャル採用をやっている以上、仕方のないことだが、競争意識をすごく掻き立てるようなシステムが採用されていた。

「教育ママ」とまでは言わないが、会社が「熱心な塾の先生」くらいの存在ではあったように思う。

それでいてこちらがお金をもらっているのだから、何の文句のつけようもないのだが、今まで「勉強しろ」と言われたことがない身としては、それが少し辛くもあった。

会社として必要な兵隊の量と質が決まっており、そのためにリソースを最大限活用する方法としては全くもって異論はないし、むしろ尊重すべきことであるのだが、自分が一兵卒の立場となったときにやはり幾分かの居心地の悪さを感じることになる。

 

この時点でようやく気が付いたのだが、「自身の成長」「待遇」「会社の合理性」「実力主義」などのポイントが満たされても、自分が仕組みの中で管理されている状況であれば、何ら意味がない。

それらは全て保証されているわけではなく、会社都合でルールが変更される可能性があるし、パイの数は決まっていて全員がそれを享受できるわけでもない。

 

「昇給試験」「行きたいプロジェクト」「裁量労働といいながらも…」「研修の成績」などのワードからその様子を想像してみてほしい。

 

もちろんお金をもらって勉強させてもらっている以上、積極的に辞める理由など一つもない。

それは頭では分かっていた。

けれども、どこまで行っても「主権を握っているのは会社」という構図は解消されない。

 それが違和感を生み出す原因となる。


だからといって、裁量権を求めて給料の安いベンチャーに行くというのは最初から選択肢になかった。

会社のビジョンに乗せられて、自身の能力を安売りするというのは好きではないし、個人レベルでそれを回避できたとしても、まわりがそういう空気だと馴染めないと思ったからだ。

そしてそこで頑張っても報われるのは経営者であり、自分ではない。

それがどうしても最初に見えてしまう。

 

お金が多くもらえるほど組織としてしっかりとしていて、いくらやり方が合理的であっても、個を捨てる必要がある。

逆に個が活かされるベンチャーは、海千山千でお金を出さずに夢ばかり見せる。

 

営利企業のジレンマだ。

 

そういう結論に350回目くらいに達した時、たまたま新しい仕事のオファーがあった。

給料据え置き、上司なし、より希少価値の高く得たいスキル、フレキシブルな労働時間、同い年のユニークな同期三人、福利厚生は公務員と同様、そして来年度の仕事や労働条件はすべて今年度の自分たちの頑張りで決まる。

 

ジレンマからの解放だ。

もうこんなチャンスは二度とないだろう。

 

そう思って即決した。

 

営利企業のジレンマは営利企業以外には関係がないのだ。

 

 

現在

というわけで今、公務員のエンジニアという特殊なポジションでプロジェクト単位の仕事をしている。

プロジェクトのために作った職位なので、他に同じような人はいない。

出世争いもなければ、うるさく時間管理してくる上司もいない。

もちろんきちんとした成果物は出さないといけないが、それは望むところである。

仕事の安定?

そんなものは生ゴミと一緒に捨ててしまえ。

個性的な人間に囲まれ、予算も潤沢に与えられ、裁量権をもって伸び伸びと仕事ができる。

少なくとも今の自分の経験と年齢で、営利企業でこれをやるのは不可能だ。

 

 

だからこそ、と思う。 

だからこそ、そういう営利企業があってもいいのかもしれない。

万人がそういう働き方を享受するのは難しいとしても、自分と自分の身の回りの人間くらいはなんとかなるだろう。

少人数の個性的なメンバーと、互いに尊重しあいながら各々が気の赴くままに好きなことをやれる。そんな環境で働ければ、素晴らしい。

 

 

どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける

 

どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろをした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

 

どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる

 

(茨木のり子「6月」)

 

 

僕はドロップインを美しい会社にしたいと思っている。

いつになるかは分からないけど、必ずそれは成し遂げたい。