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退職した4人の銀行員による4つの真実

褒められもせず苦にもされず

何をやっても長続きしないあなたが、まずすべきこと(後編)

前回、「継続」ということをテーマに、何をやっても長続きしない人の例を扱った。

taisyokutaiken.hatenablog.com

 

ジャンルは異なるにせよ、多くの方はこの例と類似の体験をしたことがあるのではなかろうか。

何を隠そう、私自身もその中の一人だ。

内に秘めたエネルギーはかなり大きいものの、やることなすことなかなか継続できずに、中途半端な「頑張りたい願望」だけがいつも残っていた。

 

ビジョンだけが先走りする”意識高い系“にだけはなりたくない、と常日頃から思っているが、あるいはそうなってしまっていたのかもしれない。

 

今でもやりたいことを100%継続できているかというと答えは否だが、少なくとも「継続できないこと」に対する悩みはなくなった。

その結果、昔に比べて飛躍的に成長速度が向上し、なんとなく立てた目標をいつのまにか達成してしまっていることも増えた。

悩み自体は尽きる気がしないが、一つ上の次元で悩めているという実感はある。

なので、ここに書き記そうと思う。

 

一つ断っておきたのは、ここでいう継続と習慣は別物であるということだ。

朝起きたら顔を洗い、ご飯を食べ、歯磨きをし、着替える、みたいな感じで無意識に行なっていることと、TOEICのスコアを上げるために毎日英語学習をすることを並列に捉えてはならない。

あくまで目標を達成するまで、期限付きで正しい方法論を実践し続けるということを、ここでは継続という。

今回取り扱う話は、継続するための方法論であって、これを読んでも習慣化することはできないので、誤解なきように。

 

では、継続するための秘訣は一体何なのか?

 

結論から言ってしまうと「頑張ろう」「続けよう」という強い意志を持って取り組まないことだ。

継続とは、むしろ「暇だし、強いてやるならこれかなぁ」くらいのテンションで行うものである。

そういった認識を持てるとなお良い。

 

頑張らないことだって?

 

意味が分からない?

 

では、もう少しお付き合いいただこう。

また、次回。

何をやっても長続きしないあなたが、まずすべきこと(後編)

前回、「継続」ということをテーマに、何をやっても長続きしない人の例を扱った。

taisyokutaiken.hatenablog.com

 

ジャンルは異なるにせよ、多くの方はこの例と類似の体験をしたことがあるのではなかろうか。

何を隠そう、私自身もその中の一人だ。

内に秘めたエネルギーはかなり大きいものの、やることなすことなかなか継続できずに、中途半端な「頑張りたい願望」だけがいつも残っていた。

 

ビジョンだけが先走りする”意識高い系“にだけはなりたくない、と常日頃から思っているが、あるいはそうなってしまっていたのかもしれない。

 

今でもやりたいことを100%継続できているかというと答えは否だが、少なくとも「継続できないこと」に対する悩みはなくなった。

その結果、昔に比べて飛躍的に成長速度が向上し、なんとなく立てた目標をいつのまにか達成してしまっていることも増えた。

悩み自体は尽きる気がしないが、一つ上の次元で悩めているという実感はある。

なので、ここに書き記そうと思う。

 

一つ断っておきたのは、ここでいう継続と習慣は別物であるということだ。

朝起きたら顔を洗い、ご飯を食べ、歯磨きをし、着替える、みたいな感じで無意識に行なっていることと、TOEICのスコアを上げるために毎日英語学習をすることを並列に捉えてはならない。

あくまで目標を達成するまで、期限付きで正しい方法論を実践し続けるということを、ここでは継続という。

今回取り扱う話は、継続するための方法論であって、これを読んでも習慣化することはできないので、誤解なきように。

 

では、継続するための秘訣は一体何なのか?

 

結論から言ってしまうと「頑張ろう」「続けよう」という強い意志を持って取り組まないことだ。

継続とは、むしろ「暇だし、強いてやるならこれかなぁ」くらいのテンションで行うものである。

そういった認識を持てるとなお良い。

 

頑張らないことだって?

 

意味が分からない?

 

では、もう少しお付き合いいただこう。

また、次回。

教えましょう、上司に怒られた時の対処法。

上司に怒られる理由は色々とあるだろう。

 

遅刻、忘れ物、準備不足、説明下手、報告漏れ、情報漏洩、などなど書き出せばキリがない。

 

ここではそれらの理由で上司に怒られた際の合理的な対処法を教示したいと思う。

 

 

ただし、必ずしも普遍的な解でないことは先に述べておく。

 

例えば全く同じプロダクトをあなたとあなたの競合他社が顧客に同条件で提示し、競合他社の担当者に人間性という面で劣り、契約を取れなかった場合。

 

申し訳ないが、そのようなケースでは素直に怒られてほしい。

私もあなたの人間性をかばうほどお人好しではない。

 

 

以下に記すのはズバリ、'凡ミス'への対処法だ。

 

体感的に、上司を怒らす原因のほとんどがこの凡ミスである気がする。

先ほどの例のようなケースはかなり稀で、例えば勤めている会社を倒産へ導くほどの影響力を持った過ちを犯したとしても、元をたどれば'凡ミス'みたいなケースがほとんどだ。どれほど上司を怒らせようとも、原因が'凡ミス'であるのならこの対処法は有効に使える。

すなわち、普遍的な絶対解にはならずとも、かなりの範囲を網羅した大変有効な対処法なのである。心して聞いてほしい。

 

 

早くその対処法を知りたいところ、申し訳ない。

まずはなぜ'凡ミス'が起こるのかを考えたい。案ずるな、簡単に終わらす。

 

凡ミスはケアレスミスともイージーミスともミスターインクレディブルともミスペレグリンとも違う、うっかりミスだ。

自身のベストを尽くした結果、全く望んでいないのに起きてしまう、生まれ変わりでもしない限り避けようのないミス、とでも言えるだろうか。

 

 

ここにきて恐れ多い。

凡ミスとはいえども、「自身のベストを尽くした結果」、というのが重要だ。

それってもはや凡ミスじゃないじゃん、という声が聞こえてきそうであるが、この点に関しては、「常に全力で生きてくれ」、といったメッセージのみを残し、深くは触れないでおく。

 

 

お待たせしました。

上司にうっかりミスを指摘された際は、以下のように反論すればいい。

「恐れ入りますが、少なくとも私は全力を尽くしました。まずその点、わかっていただけていないのであれば、初めにあなたの管理能力を疑わざる終えません。お分りいただけた上でのご指摘であれば、無礼な発言失礼いたしました。しかしながら、加えて、凡ミスは人間のデフォルト機能であると私は考えております。つまり、凡ミスを許容できないということは、私を、ひいては全人類を、機械と見なしているのとイコールであり、簡単にいえば、あなたはあなた自身を機械であると考えている、そう判断できます。もしやあなたは、機械なのですか。」

 

これに反論できるような上司であれば、そもそも怒ったりしないだろう。

少数の上司はこれを理解し、怒りの対象がいつのまにか全人類に移っていることに気付く。さすがにキャパオーバーだ。幾ら何でも全人類を敵に回すことはできない。上司は怒ることをやめるだろう。

だが、大半の上司は理解できず、血相を変えてブチギレる。

 

その時はこう付け足せば良い。

 

「わからないでしょうか。機械が壊れた際に怒るのは理解できますか。例えば、正確性というデフォルト機能をもつパソコンが、1+1を3と出力したらどうします、それはもう一大事ですよね、怒りながらappleに電話したいただいて結構です。だが人間にその機能はついていない、むしろうっかり機能が付いている。人間のうっかりに対して怒ることは、例えばパソコンに向かって、お前はなぜ1+1を2と出力するのだ、と、そもそもの機能、さらには数学や概念、文字や言葉の恣意性に対して怒り散らかすことと同様なのです。だから、不毛な時間を過ごすのはやめて、仕事に戻りませんか。」

 

例え会社が倒産寸前に陥りうっかりミスを犯し、上司が野獣と化していたとしても、具体例を用いて説明すれば、怒りで思考能力が麻痺した上司も納得するはずだ。

ここまで言っても上司の怒りが収まらない場合は、一刻も早くその会社を辞めるべきだ。申し訳ないがその会社の人間は人間ではない、ただの獣だ。

 

確かに少々色々な面でエッジが効いているので、実際にこの手法を使うことにためらいがあるかもしれない。

されど案ずるな、私の脳内シミュレーションでは全勝だ。

 

 

 

現実世界での結果報告をお待ちしている。

 

何をやっても長続きしないあなたが、まずすべきこと(前編)

「継続は力なり」という。

 

自身の願望を叶える方法論の中で最も難しく、そして最も効果的なのは、おそらくこの「継続」であろう。

これに関して、異を唱える人はそう多くないはずだ。

もちろん、勝負するフィールドを正しく選択したり、運を味方につけたり、あるいは決断すべきタイミングを感じ取る、といった要素も重要ではあるが、最終的に「やるかやらないか」という問題からは逃れられない。

正しいノウハウ自体は世の中に溢れかえっていて、それを本当の意味で継続できるかどうかが、勝負の鍵になっている。

 

英語学習を例に挙げよう。

 

英語が上手くなりたいと思っているとする。

とりあえず本屋に行き、手頃な参考書を一冊買ってみる。

1日1ページやればいつの間にかすごく力がつく、みたいなやつだ。

最初のうちは順調に進めるが、忙しかったり面倒くさくなったりして、進まない日が出てくる。

次の日に気合を入れて前日分を終わらせていたが、それも徐々にできなくなり、いつの間にか「積ん読」になって、英語頑張りたいモチベーションだけが中途半端に残る。

 

そんな時にたまたま「聞いているだけで英語力が劇的にアップ」というCMを見て、謎のCDセットを購入する。

これなら通勤電車で聞けるし、頑張らなくても良い。

最初のうちは順調に進めるが、電車に座れる日はいつの間にか眠ってしまう。

これはいかんと思い、気合を入れて立って通勤していたが、気づけば心配事や今日の晩ご飯といった余計なことを考えてしまい、全然集中できていない。

そのうち再生するのすら躊躇するようになり、罪悪感を紛らわせるために何となく洋楽をかけてお茶をにごす。

また、英語頑張りたいモチベーションだけが中途半端に残る。

 

色々考えた末に「集中できないのは面白くないからだ」という結論に至り、洋画を見ることを思い立つ。

Googleで検索すると「洋画を見るだけで英語が話せるようになる方法」「楽しみながら英語を学習してTOEICが200点以上伸びた話」みたいなのがわんさか出てきて、俄然やる気になる。

早速TUTAYAに行って、自分のみたいDVDを数枚見繕い、帰って上映する。

これはさすがに楽しい。翌日も、もう一枚見る。

一週間で借りていたものを全て見終わり、また新しいものを数枚借りる。

また次の週までに見終わり、全て返却する。いい感じだ。

けれどもそのうち、借りても見ないものが残り始める。

何回も同じ作品を見た方が効果的だというのは知っていても、いざ借りるとなかなか再生しない。

そうこうしているうちに、借りても見ないのであればお金がもったいないと思うようになり、借りる枚数が減る。

徐々に借りることも面倒になり、みたび挫折。

英語頑張りたいモチベーションはいつからか、英語の上達方法誰か教えてくれモチベーションに変化し、外国人と話しても結局ほとんど分からないし、TOEICを受けてもスコアはそんなに上がらない現実に気がつく。

 

こんなケースだ。

 

英語学習を例に挙げたが、そんなに意識の高い目標でなくてもいい。

「GW中にスターウォーズを全部見る」とかでも良い。

それでも結構難しい。

なんでも良いが、もしそういったことを継続したいと思っていで、出来ていない場合はそもそも「継続」に対する考え方が根本的に間違っている可能性がある。

 

長くなったので、継続する方法論についての詳しい解説はまた次回。

サイゼリアの素晴らしさについて語らおうじゃないか。

あなたはサイゼリアを知っているだろうか。

そう、誰もが一度は利用したことのあるあのイタリアンファミリーレストランチェーンのことだ。

 

私の場合、気の知れた同僚と簡単なミーティングをする際にはサイゼリヤで行うと決めている(正確には同僚が決め、まんまと乗せられた)。

 

 

いい年をした大人がサイゼリヤなんて、なんてみすぼらしいんだ。

 

読者の皆様は今まさにそう思っているだろう。

だが、安心してほしい。読み終わった頃にはぐうの音も出ないはずだ。

 

 

サイゼリヤのいいところその1

まず何よりも始めに出てくるのが、費用対効果である。

コスパとも言うのだろうか。

サイゼリヤではそこそこの味のパスタが400円ほどで食べることができる。お腹が空いていないにもかかわらず、パスタを頼んでしまいそうになるほどのコスパだ。

このご時世、都心のパスタをその程度の価格で食せるケースは非常に稀である。

 

今まさに、読者のみなさまは、

 

なんじゃそれ、みすぼらしさ極まりない。

 

そう思っている頃だろう。

早まらないで読み進めてほしい、読み終えた頃には悶絶だ。

 

 

 

サイゼリヤのいいところ2

どこにでもあって、かつ、広い。

 

これはとても重要なことで、どこにでもあるからわざわざサイゼリヤめがけて電車に乗る必要はないし、広いおかげで入店待ちになるケースもほぼない。

このご時世、都心で予約をする必要なく、手軽に、確実に入ることができる店はそうそうない。

スターバックスを想像してほしい。スタバはどこにでもあるが非常に混んでいる。対してサイゼリヤは待ち時間ゼロでそこそこのスペースに腰を下ろすことができる。

個人経営の今にも潰れそうなカフェを想像してほしい。いつも空いており、ふかふかのソファに腰を下ろすことができる、が、サイゼリヤと違い、どこにでもあるわけではない。

 

 

サイゼリヤのいいところ3

喫煙席がある。

会食メンバーの中に喫煙者がいたとしても全く問題はない。

 

 

 

サイゼリヤのいいところ4

長期滞在しても怒られない。

 

これは2ともリンクする。サイゼリヤは満席御礼になることが少なく、そのため長期滞在も許される。

例えば200円のデザートのみで5時間滞在しようとも、店員さんは会計時に嫌な顔ひとつしない。

最近ではカフェでさえ、時間制限を設けるこの時代。

なんて優良なのだ、サイゼリヤ

 

 

どうだろう、ここまでくれば読者の8割は今すぐにでもサイゼリヤに行きたくなっているはずだ。

 

 

 

 

最後に、これを100%に上げておく。

 

上記を考慮して読んでほしい。

サイゼリヤでミーティングを行う本当の理由〉

サイゼリヤはどこにでもあるため、いちいちミーティングの場所を決める必要がない。お互いのアクセスを考えて、一番アクセスの良い駅を選ぶ。改札を出ればほらそこにサイゼリヤだ。これは非常に重要なことで、タイムパフォーマンスが限りなく最大値に近い。前述したように、店を決める時間もなければ予約をする手間もいらない、どこにでもあるから店の場所を考慮する必要もない、もっと言えばメニューが頭に入っているので道中に何を頼むかまで決められる。余った時間を他に回すことで、限りある人生を有効に使うことができる。金欠者や喫煙者への配慮もいらないので、もしそうゆうことを考慮しなければならないのであれば、捻出できる時間はさらに増える。そして何より、そうゆう心がけがミーティングには求められることが多い。たとえ1時間のミーティングであったとしても、6人集まれば6時間の機会費用が費やされている。そこを有効に使わない手はないし、そのミーティングのパフォーマンスを下げようと考える人などいないだろう。確かに実際に会ってミーティングを行う時点で効率的でない部分もあるが、それはそれ、これはこれ、だ。実際に会ってミーティングを行うことは効率性よりも重要な価値がある。だから、省けるとこは省こう、とそう言っているのだ。そうゆう観点を持っていれば、たとえどれだけ冷ややかな目を向けられようが、サイゼリヤに集まることに全くの抵抗はないし、逆にサイゼリヤほど適している場所もない。

 

 

どうだろう、そろそろ開いた口が塞がらなくなっているだろうか。

2つの職場を辞めて見えてきた理想の職場

2年で2回仕事を辞め、海外をフラフラした後に3つ目の職場で働き始めた今、ようやく「こういう感じで生きていけばいいのか」というのが見えてきた。

 

今が100%理想の環境であるのかどうかは分からないが、間違いなく状況は改善され、正しいレールに乗った感はある。

 

その感覚を、もう少し細かく素因数分解し、この満足感とも安定感ともつかぬ実感の正体を検証していきたい。

 

 

ストレスからの開放

「こんなに楽でお金がもらえる仕事はない。全然社会のためになってないけど」

 

というのが、一つ目の会社で働いていた時に感じていたことであった。

大学の部活のハードさに比べれば肉体的にも精神的にもお話にならないくらい負荷はかかっていなかったし、「まじでスゲエ」と思える人もいない職場だった。

幸い周囲には恵まれ、裁量権がある程度与えられた中で仕事ができたので、そこそこ面白いと感じることもあった。

 

けれども、それは辞めた今だからこそ言えることだとも思っている。

下らなさすぎてほとんど忘れてしまったが、本当に下らないと思うことが結構な頻度で起こり、その事実をやり過ごすための感情の処理と、その事実を共有する場から開放されるための未来の道筋の模索に相当なエネルギーがかかっていたのは間違いない。

業務もあくまで業務、というかほぼルーティン雑務だったので、それ以外の時間で色々と勉強をして自分の付加価値を高めていく必要があり、極めて非効率だった。

そういう意味ではプレッシャーとはまた別の、焦燥感や無力感からくるタイプのストレスにさらされていたといえる。

 

そこで、得たいスキルを業務として身に付けることができ、今より高い報酬をもらえ、学歴と口先だけでなんとかなるポテンシャル採用をやっている、年功序列でない生産性高めの会社に転職することにした。

 

そして、下らない人間関係とスキルアップのない仕事が原因で生じていた、大学時代とは全く異なる種類のストレスから開放された。

 

 

仕組みからの開放

二つめの会社は、想像していた通り全てがとても合理的だった。

当たり前が当たり前でない会社からやってきた身としては、いちいち新鮮で面白かった。

ただ、人数があまりに多いゆえに、全員にとっての最適解というものは存在せず、あらゆるトレードオフの中でバランスをとっていく必要があった。

そして、これも人数が多いゆえに起こりうる問題だと思うが、自分が個人として認識されていないという実感がすごかった。

 

そこそこ頑張っている一兵卒。

 

それが、この採用制度の問題点であり、限界であった。

 

また、これもポテンシャル採用をやっている以上、仕方のないことだが、競争意識をすごく掻き立てるようなシステムが採用されていた。

「教育ママ」とまでは言わないが、会社が「熱心な塾の先生」くらいの存在ではあったように思う。

それでいてこちらがお金をもらっているのだから、何の文句のつけようもないのだが、今まで「勉強しろ」と言われたことがない身としては、それが少し辛くもあった。

会社として必要な兵隊の量と質が決まっており、そのためにリソースを最大限活用する方法としては全くもって異論はないし、むしろ尊重すべきことであるのだが、自分が一兵卒の立場となったときにやはり幾分かの居心地の悪さを感じることになる。

 

この時点でようやく気が付いたのだが、「自身の成長」「待遇」「会社の合理性」「実力主義」などのポイントが満たされても、自分が仕組みの中で管理されている状況であれば、何ら意味がない。

それらは全て保証されているわけではなく、会社都合でルールが変更される可能性があるし、パイの数は決まっていて全員がそれを享受できるわけでもない。

 

「昇給試験」「行きたいプロジェクト」「裁量労働といいながらも…」「研修の成績」などのワードからその様子を想像してみてほしい。

 

もちろんお金をもらって勉強させてもらっている以上、積極的に辞める理由など一つもない。

それは頭では分かっていた。

けれども、どこまで行っても「主権を握っているのは会社」という構図は解消されない。

 それが違和感を生み出す原因となる。


だからといって、裁量権を求めて給料の安いベンチャーに行くというのは最初から選択肢になかった。

会社のビジョンに乗せられて、自身の能力を安売りするというのは好きではないし、個人レベルでそれを回避できたとしても、まわりがそういう空気だと馴染めないと思ったからだ。

そしてそこで頑張っても報われるのは経営者であり、自分ではない。

それがどうしても最初に見えてしまう。

 

お金が多くもらえるほど組織としてしっかりとしていて、いくらやり方が合理的であっても、個を捨てる必要がある。

逆に個が活かされるベンチャーは、海千山千でお金を出さずに夢ばかり見せる。

 

営利企業のジレンマだ。

 

そういう結論に350回目くらいに達した時、たまたま新しい仕事のオファーがあった。

給料据え置き、上司なし、より希少価値の高く得たいスキル、フレキシブルな労働時間、同い年のユニークな同期三人、福利厚生は公務員と同様、そして来年度の仕事や労働条件はすべて今年度の自分たちの頑張りで決まる。

 

ジレンマからの解放だ。

もうこんなチャンスは二度とないだろう。

 

そう思って即決した。

 

営利企業のジレンマは営利企業以外には関係がないのだ。

 

 

現在

というわけで今、公務員のエンジニアという特殊なポジションでプロジェクト単位の仕事をしている。

プロジェクトのために作った職位なので、他に同じような人はいない。

出世争いもなければ、うるさく時間管理してくる上司もいない。

もちろんきちんとした成果物は出さないといけないが、それは望むところである。

仕事の安定?

そんなものは生ゴミと一緒に捨ててしまえ。

個性的な人間に囲まれ、予算も潤沢に与えられ、裁量権をもって伸び伸びと仕事ができる。

少なくとも今の自分の経験と年齢で、営利企業でこれをやるのは不可能だ。

 

 

だからこそ、と思う。 

だからこそ、そういう営利企業があってもいいのかもしれない。

万人がそういう働き方を享受するのは難しいとしても、自分と自分の身の回りの人間くらいはなんとかなるだろう。

少人数の個性的なメンバーと、互いに尊重しあいながら各々が気の赴くままに好きなことをやれる。そんな環境で働ければ、素晴らしい。

 

 

どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける

 

どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろをした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

 

どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる

 

(茨木のり子「6月」)

 

 

僕はドロップインを美しい会社にしたいと思っている。

いつになるかは分からないけど、必ずそれは成し遂げたい。

「視野を広げる」の間違った認識 (理論編)

そういえば、最近新聞を読まない。

テレビは、全く見なくなってから随分と時間が経つ。

雑誌も元々読まない。

就活の際、出版社の面接でそれを言って落とされた。

ネットのニュースも主体的にはチェックしない。

本も実は、数える程度しか読まない。

 

常に色んな種類の情報に触れ、様々な知識を身に付けることが良しとされる今の社会では、間違いなく自分は怠け者の部類に入るだろう。

 

けれども、まわりからの評価は「お前は何でも知っている」「どうしてそんなに色々詳しいのか」といったものが多い。自分でも客観的に見て、そう思う。

 

なぜなのか。

 

答えはすごく単純で、世間で良しとされている「視野を広げるためにあらゆる情報をインプットする」という行為が間違っているからにほかならない。

 

僕はこの数年、必要のない情報や人間関係をできるだけ遠ざけることに神経を使ってきた。自分のキャパシティを遥かに超える情報と無数にある出会いの場に飲み込まれ、知らぬ間に身動きがとれなくなってしまい、アイデンティティが薄まっていくのがとても嫌だったからだ。

 

そうやって距離をとることで、その魑魅魍魎とした世界とは違う位置ベクトルに確かに存在することができ、そこに少しの余裕ができることに気が付いた。ユートピアとまでは言わないが、オアシスみたいなものだ。その中で心ゆくまで自由に発想することで、関心のある事柄を発見し、その好奇心が続く限り調査、検証する。一通り満足すると、また違う関心事が見つかり、再びじっくり時間をかけて深掘りしていく。時には足を運んだりもする。

 

そうこうしている内に、人とは違った方向のかなり深い知識や経験が蓄積されていき、さらにそれらがどんどんリンクしはじめ、日々新聞を読んでいるサラリーマンよりも物知りで実用的な人間になる。

 

やりたくないことをやらず、気ままに生きているだけなのだが、実はそれが結構大事なのかもしれない。

 

そもそも、これだけ膨大な量があって、質のいいものも悪いものも混在している現代社会において、特定のソースから無作為に情報をインプットする行為は非常に非効率的だと言える。

むしろ、対価(時間・費用・メンタル)を支払ってまで得た情報を無意識的に「正しい」と信じることによって、余計なバイアスがかかってしまい、自由な発想を妨げることにもなりかねない。

また、一般的なメディアの流している情報は、確かに間違っていないが、そんなに密度の濃いものではないし、そもそも多くの人の目に届いており、それを知っていることの希少価値はほとんどない。

 

東芝の景気が悪いことが分かるのはいいが、それが分かってどうなるというのか。誰もが知っている、その当たり障りのない二次的、三次的な内容は本当に必要な情報なのか。それを知らないことで相手の機嫌をそこねる可能性があるから、とにかく知っておかないといけない、みたいな仕事をしているのなら、そんな仕事はそのうちなくなるから辞めたほうがいい。

そしてその時、必死でインプットしていた情報など、仕事を辞めればすっかり忘れてしまう。

 

であれば、最初から覚えないようにした方が賢明ではなかろうか。

 

それよりも、時間を忘れて熱中してしまうほど面白いものを見つけることに労力を費やし、それが見つかった時に熱中することができるような環境作りに神経を使ったほうがよほど生産的である。

 

 

話をまとめよう。

 

よくわからない焦燥感にかられ、「見ないと」「読まないと」というモチベーションで行う、間違った情報収集はやめるべきだ。

無意識的に時間と脳の容量が奪われ、無意味な安心感を得るだけである。

それらをできるだけ排除して、落ち着いてフラットに考えられる余裕を作り出そう。

 

そこで面白いと感じたことを気の向くままに、心ゆくまで調べつくし、何なら実践していくことができれば、自然とあらゆる分野の知識が蓄積され、本物の「視野の広い」人間になることができるはずだ。