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退職した4人の銀行員による4つの真実

褒められもせず苦にもされず

2つの職場を辞めて見えてきた理想の職場

2年で2回仕事を辞め、海外をフラフラした後に3つ目の職場で働き始めた今、ようやく「こういう感じで生きていけばいいのか」というのが見えてきた。

 

今が100%理想の環境であるのかどうかは分からないが、間違いなく状況は改善され、正しいレールに乗った感はある。

 

その感覚を、もう少し細かく素因数分解し、この満足感とも安定感ともつかぬ実感の正体を検証していきたい。

 

 

ストレスからの開放

「こんなに楽でお金がもらえる仕事はない。全然社会のためになってないけど」

 

というのが、一つ目の会社で働いていた時に感じていたことであった。

大学の部活のハードさに比べれば肉体的にも精神的にもお話にならないくらい負荷はかかっていなかったし、「まじでスゲエ」と思える人もいない職場だった。

幸い周囲には恵まれ、裁量権がある程度与えられた中で仕事ができたので、そこそこ面白いと感じることもあった。

 

けれども、それは辞めた今だからこそ言えることだとも思っている。

下らなさすぎてほとんど忘れてしまったが、本当に下らないと思うことが結構な頻度で起こり、その事実をやり過ごすための感情の処理と、その事実を共有する場から開放されるための未来の道筋の模索に相当なエネルギーがかかっていたのは間違いない。

業務もあくまで業務、というかほぼルーティン雑務だったので、それ以外の時間で色々と勉強をして自分の付加価値を高めていく必要があり、極めて非効率だった。

そういう意味ではプレッシャーとはまた別の、焦燥感や無力感からくるタイプのストレスにさらされていたといえる。

 

そこで、得たいスキルを業務として身に付けることができ、今より高い報酬をもらえ、学歴と口先だけでなんとかなるポテンシャル採用をやっている、年功序列でない生産性高めの会社に転職することにした。

 

そして、下らない人間関係とスキルアップのない仕事が原因で生じていた、大学時代とは全く異なる種類のストレスから開放された。

 

 

仕組みからの開放

二つめの会社は、想像していた通り全てがとても合理的だった。

当たり前が当たり前でない会社からやってきた身としては、いちいち新鮮で面白かった。

ただ、人数があまりに多いゆえに、全員にとっての最適解というものは存在せず、あらゆるトレードオフの中でバランスをとっていく必要があった。

そして、これも人数が多いゆえに起こりうる問題だと思うが、自分が個人として認識されていないという実感がすごかった。

 

そこそこ頑張っている一兵卒。

 

それが、この採用制度の問題点であり、限界であった。

 

また、これもポテンシャル採用をやっている以上、仕方のないことだが、競争意識をすごく掻き立てるようなシステムが採用されていた。

「教育ママ」とまでは言わないが、会社が「熱心な塾の先生」くらいの存在ではあったように思う。

それでいてこちらがお金をもらっているのだから、何の文句のつけようもないのだが、今まで「勉強しろ」と言われたことがない身としては、それが少し辛くもあった。

会社として必要な兵隊の量と質が決まっており、そのためにリソースを最大限活用する方法としては全くもって異論はないし、むしろ尊重すべきことであるのだが、自分が一兵卒の立場となったときにやはり幾分かの居心地の悪さを感じることになる。

 

この時点でようやく気が付いたのだが、「自身の成長」「待遇」「会社の合理性」「実力主義」などのポイントが満たされても、自分が何らかの仕組みの中で管理されている状況であれば、何ら意味がない。

それらは全て保証されているわけではなく、会社都合でルールが変更される可能性があるし、パイの数は決まっていて全員がそれを享受できるわけでもない。

 

「昇給試験」「行きたいプロジェクト」「裁量労働といいながらも…」「研修の成績」などのワードからその様子を想像してみてほしい。

 

もちろんお金をもらって勉強させてもらっている以上、積極的に辞める理由など一つもない。

それは頭では分かっていた。

けれども、どこまで行っても「主権を握っているのは会社」という構図は解消されない。

 

だからといって、裁量権を求めて給料の安いベンチャーに行くというのは最初から選択肢になかった。

会社のビジョンに乗せられて、自身の能力を安売りするというのは好きではないし、個人レベルでそれを回避できたとしても、まわりがそういう空気だと馴染めないと思ったからだ。

そしてそこで頑張っても報われるのは経営者であり、自分ではない。

 

お金が多くもらえるほど組織としてしっかりとしていて、いくらやり方が合理的であっても、個を捨てる必要がある。

個が活かされるベンチャーは、海千山千でお金を出さずに夢ばかり見せる。

 

営利企業のジレンマだ。

 

そういう結論に350回目くらいに達した時、たまたま新しい仕事のオファーがあった。

給料据え置き、上司なし、より希少価値の高く得たいスキル、フレキシブルな労働時間、同い年の同期三人、福利厚生は公務員と同様、そして来年度の仕事や労働条件はすべて今年度の自分たちの頑張りで決まる。

 

ジレンマからの解放だ。

もうこんなチャンスは二度とないだろう。

 

そう思って即決した。

 

営利企業のジレンマは営利企業以外には関係がないのだ。

 

 

現在

というわけで今、公務員のエンジニアという特殊なポジションでプロジェクト単位の仕事をしている。

プロジェクトのために作った職位なので、他に同じような人はいない。

出世争いもなければ、うるさく時間管理してくる上司もいない。

もちろんきちんとした成果物は出さないといけないが、それは望むところである。

仕事の安定?

そんなものは生ゴミと一緒に捨ててしまえ。

個性的な人間に囲まれ、予算も潤沢に与えられ、裁量権をもって伸び伸びと仕事ができる。

少なくとも今の自分の経験と年齢で、営利企業でこれをやるのは不可能だ。

 

 

だからこそ、と思う。 

だからこそ、そういう営利企業があってもいいのかもしれない。

万人がそういう働き方を享受するのは難しいとしても、自分と自分の身の回りの人間くらいはなんとかなるだろう。

少人数の個性的なメンバーと、互いに尊重しあいながら各々が気の赴くままに好きなことをやれる。そんな環境で働ければ、素晴らしい。

 

 

どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける

 

どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろをした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

 

どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる

 

(茨木のり子「6月」)

 

 

僕はドロップインを美しい会社にしたいと思っている。

いつになるかは分からないけど、必ずそれは成し遂げたい。

「視野を広げる」の間違った認識 (理論編)

そういえば、最近新聞を読まない。

テレビは、全く見なくなってから随分と時間が経つ。

雑誌も元々読まない。

就活の際、出版社の面接でそれを言って落とされた。

ネットのニュースも主体的にはチェックしない。

本も実は、数える程度しか読まない。

 

常に色んな種類の情報に触れ、様々な知識を身に付けることが良しとされる今の社会では、間違いなく自分は怠け者の部類に入るだろう。

 

けれども、まわりからの評価は「お前は何でも知っている」「どうしてそんなに色々詳しいのか」といったものが多い。自分でも客観的に見て、そう思う。

 

なぜなのか。

 

答えはすごく単純で、世間で良しとされている「視野を広げるためにあらゆる情報をインプットする」という行為が間違っているからにほかならない。

 

僕はこの数年、必要のない情報や人間関係をできるだけ遠ざけることに神経を使ってきた。自分のキャパシティを遥かに超える情報と無数にある出会いの場に飲み込まれ、知らぬ間に身動きがとれなくなってしまい、アイデンティティが薄まっていくのがとても嫌だったからだ。

 

そうやって距離をとることで、その魑魅魍魎とした世界とは違う位置ベクトルに確かに存在することができ、そこに少しの余裕ができることに気が付いた。ユートピアとまでは言わないが、オアシスみたいなものだ。その中で心ゆくまで自由に発想することで、関心のある事柄を発見し、その好奇心が続く限り調査、検証する。一通り満足すると、また違う関心事が見つかり、再びじっくり時間をかけて深掘りしていく。時には足を運んだりもする。

 

そうこうしている内に、人とは違った方向のかなり深い知識や経験が蓄積されていき、さらにそれらがどんどんリンクしはじめ、日々新聞を読んでいるサラリーマンよりも物知りで実用的な人間になる。

 

やりたくないことをやらず、気ままに生きているだけなのだが、実はそれが結構大事なのかもしれない。

 

そもそも、これだけ膨大な量があって、質のいいものも悪いものも混在している現代社会において、特定のソースから無作為に情報をインプットする行為は非常に非効率的だと言える。

むしろ、対価(時間・費用・メンタル)を支払ってまで得た情報を無意識的に「正しい」と信じることによって、余計なバイアスがかかってしまい、自由な発想を妨げることにもなりかねない。

また、一般的なメディアの流している情報は、確かに間違っていないが、そんなに密度の濃いものではないし、そもそも多くの人の目に届いており、それを知っていることの希少価値はほとんどない。

 

東芝の景気が悪いことが分かるのはいいが、それが分かってどうなるというのか。誰もが知っている、その当たり障りのない二次的、三次的な内容は本当に必要な情報なのか。それを知らないことで相手の機嫌をそこねる可能性があるから、とにかく知っておかないといけない、みたいな仕事をしているのなら、そんな仕事はそのうちなくなるから辞めたほうがいい。

そしてその時、必死でインプットしていた情報など、仕事を辞めればすっかり忘れてしまう。

 

であれば、最初から覚えないようにした方が賢明ではなかろうか。

 

それよりも、時間を忘れて熱中してしまうほど面白いものを見つけることに労力を費やし、それが見つかった時に熱中することができるような環境作りに神経を使ったほうがよほど生産的である。

 

 

話をまとめよう。

 

よくわからない焦燥感にかられ、「見ないと」「読まないと」というモチベーションで行う、間違った情報収集はやめるべきだ。

無意識的に時間と脳の容量が奪われ、無意味な安心感を得るだけである。

それらをできるだけ排除して、落ち着いてフラットに考えられる余裕を作り出そう。

 

そこで面白いと感じたことを気の向くままに、心ゆくまで調べつくし、何なら実践していくことができれば、自然とあらゆる分野の知識が蓄積され、本物の「視野の広い」人間になることができるはずだ。

 

幽霊はいないのに「海王星は存在する」となぜ言い切れる。

 

幽霊の存在有無についてはしばしば議論されるが、私たちは海王星の是非についての議論は行わない。

最もありきたりな答えはこうだ。

「幽霊は物質として存在しないが、海王星は物質として存在している。幽霊が存在するというのであれば、今ここで見せて欲しい。」

 

私たちは小学校で「水金地火木土天海冥」を復唱し、太陽系の惑星について学んだ。

おそらく理科の教科書にも載っているだろうし、そうでなくてもググれば一発で海王星の画像を見ることができる。

イメージ通り、海王星は青い球体だ。

加えてフランス人天文学者が19世紀半ばに望遠鏡観測によって実在を確認したことを知ることができる。

 

同様に幽霊とググって欲しい。

イメージ通り、貞子の画像がスマホ画面を埋め尽くす。

加えて霊体験の多くを読むことができる。

 

 

では海王星同様、幽霊も存在するのだろうか。

 

 

順を追って説明していこう。

そもそも論として海王星は存在しているのだろうか。

教科書に載っているからという理由だけでそれを真実と判断している可能性が拭えない。

結論から言ってしまうと、海王星は間違いなく存在する。が、それはマテリアルとしてではなく人類が共有するイメージとしてだ。

海王星を実際に目視したものは人類の1%にも満たないだろう。

多くの人々が認識していることは高性能な望遠鏡を使えば海王星を目視することができるだろうという不確かな事実のみだ。だが、この事実は驚くほどに信憑性が高い。それは別に信用力の高い機関や有能な学者がオンライン上に情報を発信したり論文を発表しているからではない。地球上の大半の人間が海王星は存在するというイメージを共有しているからである。

海王星を発見した学者が論文を発表し、その写真や複雑な数式を元に学者界隈で信頼を得る。大きなアンチテーゼが現れず、その発見が一般人に馴染みのあるものであればメディアが取り上げ、気づけば常識として私たちの頭の中にインプットされる。そんな感じのフローを経て、私たちの脳内には海王星という全人類間で統一された青い球体が存在しているのだ。

 

 

一方幽霊はどうだろう。

少なくともある程度信用力のある機関が存在を示唆する記事を出していたり(http://www.asahi.com/articles/ASHDY737QHDYUNHB00B.html)、もっともらしい写真も多々ある。霊体験をしたことがある人に出会うことも難しくない。霊の存在を示唆する情報はそこら中に溢れており、もはや数学的に証明できる論文がないなどと言ってソースの信憑性を疑うのはナンセンスな気がしてならない。

しかしこれらを考慮しても依然として「幽霊はいない」と断言する人はいるし、それを確実に否定できる友人は恐らくいない。

 

この海王星と幽霊の差は以下に基づく。

幽霊のイメージをインストールさせないような別のイメージを私たちが共有していること、である。

 

幽霊のイメージをインストールさせないような別のイメージとはどうゆうことか。

私たちには海王星同様、物理学や化学、生物学といった様々なソフトウェアが脳内にインストールされている。イメージ共有ツールといったとこだ。

宇宙には酸素が無いと知っているし地球上では重力が働くことを知っている。人間は神に創造されたものでなく猿の先祖から進化してきたことも知っている。

これは学校で学んだからでは無い。私たちの社会がそれ自体を前提として動いているからだ。もしあなたが「俺は神に創られた、I can fly. 」などと豪語すれば、精神病棟に入れられかねない社会だ。

この社会で生きていくためにはそれらのソフトウェアが不可欠で、逆にこの社会で生きていれば自然と、好まずとも、インストールされてしまう。

小学校教育なんかはこのインストール速度を速めるためにある。子供をいかにして社会に適応させていくか、社会が真実と認めるものをどれだけ多く詰め込むか。

それら社会への適応に必要なソフトウェアの中に、幽霊に関するものは含まれない。

ホモサピエンスの起源にも、ピラミッドの創造にも、マリリンモンローの死についても、謎なことはあってもそれを心霊現象で説明はしてこなかった。今の社会で生きていくために幽霊の理解など全くもって不必要なのだ。

むしろ心霊現象は社会にとって悪とも言える。例えばポルターガイストは重力を無視しているし、幽体離脱は生物学を否定する。もしこんなことが日常に頻繁に起こるのならば、私たちは小学校で心霊学を学ばなければならないだろう。恐らく法を変える必要もある、私から離脱した幽体が他人の家に入るのは侵入罪になるのか否か。政治家は心霊現象頻発者の票を得るためのマニフェストをつくらなければならないし、企業はポルターガイスト用の机なんかもつくらないとダメだ。

つまり、私たちの既存のソフトウェアにとって、幽霊はウイルスのようなものなのだ。人間というハードウェアを破壊しかねない。

そしてさらにいえば、だから私たちの脳内には「幽霊はいないことにしよう」という控えめなセキュリティソフトが入っている。多少の心霊現象では人間は壊れないようにできているのだ。

 

しかし、社会の変化とともに、私たちのソフトウェアは絶えずアップデートされていく。進化論が社会に受け入れられるまでは超自然的な生命の誕生が当然だったように。

数十年、数百年後には幽霊が当たり前の存在になっているのかもしれない。

 

 

だから結論としては、"今の社会において"海王星は存在するが幽霊は存在しない、だ。

 

 

 

 

少し長くなったが、友人と幽霊の有無について議論する際には、上記の内容を是非使っていただきたい。

 

学生時代に感じた違和感はやはり違和であった。

 

「今まで何人と付き合ったことある?」

 

と聞かれた時、果たして中学時代の元カノを数に含めるべきか否か。

 

恋愛などと決して呼ぶことのできない初々しすぎて恥ずかしすぎる青春は、

おそらくその回答に入れるべきでない。

 

なんとなくそんな風潮が世の中にはあり、

そのせいで、いつのまにか数に入れてはいけないという幻想が私の中にインプットされている。

 

そもそも付き合った人数が多い方がいいとか、少ない方がダメとか、

そんな話は抜きにしてほしい。

 

本当に数に入れるべきでないのだろうか。

少なくとも当時はその恥ずかしいほどの青春を恋だと思っていたはずだ。

 

以上は全くの余談である。正直、どっちでもいい。

 

 

 

私が言いたいのは、

上記のような感覚で、幼少期や中学生、高校生の時の当時の"思考"は未熟なのもであると決めつける傾向にあり、それは間違っているのではないか、ということだ。

 

そもそもそのような傾向にあるのは私だけかもしれないが、

全人類がそのような傾向にあるかのごとく話を進める。

 

なぜこんな話になったのか。

近頃、フリーターという地位を最大限に活用し、よく頭を使っている。

だから、様々な発見があった。

その"発見"の瞬間、「あ、これ学生時代に考えたことあるな、高校生の時だっけか?」

みたいな感覚が多々あったのだ。

 

ここではその一例を紹介したい。

 

 

 

 

 

私たちの祖先は紀元前何万年も前に認知革命を起こし、地球唯一のホモ属となった。

そう、ホモ・サピエンスだ。

ホモ・サピエンスは想像という能力を手に入れ、様々な架空を作り出すことで、生物ヒエラルキーの頂点に立った。

社会を意識し、貨幣を取り入れ、文字や国、会社を作り出した。

何十億ものホモ・サピエンスが同じ方向を向くためには、壮大な幻想を皆が共有する必要がある。貨幣や国、会社なんかも全てその幻想だ。実体はない。

そんな幻想を日本の一般人レベルにまで落とし込んでいくと、働いてお金を稼ぎ自立しなければならない、といったものにたどり着く。

人間が生み出した国という架空の概念の中で、架空の会社というものに所属し、これまた架空のお金を稼ぐことだ。

これは別に人間を否定しているわけではない。だったら、アマゾンで自給自足の生活でも送ってろ、と言われてももうできないし。

けれど違和感はある。人間が作り出した架空に縛られて生きていく。

自由な時代に生まれてきたはずが、気づけば周囲は私たちの先祖が作り出した想像だらけだ。

その中で、やはり無人島ですら生きていくことはできないので、なんとか社会との折り合いをつけ、気ままに生きていくよう意識しなければならない。

 

そんなことを考えていた。

 

あれ、なんかこの感覚前にもあったような、、、

 

 

そう、高校生の時だ。

友人と『働くとは』みたいなテーマで話していた。

当時の私たちの意識に、大学を卒業して働かなければならないという考えが間違いなくあったのだろう。

誰かが「働きたくねーな」と言ったのがその証拠だ。

「何のために働くの?」

「お金でしょ」

「だったら100億円持ってたら働かないかな?」

そう言ったのは私だ。

一瞬間が空いた、気がする。

「多分働くと思うんだよね、じゃないと人生暇じゃない?」

そう言ったのも私だ。

 

高校生の私たちには架空のインプット量が少なかったのだろう。

会社に勤めて自立しなければならないといった幻想はインプットされていなかった。

なぜか働かなければならない、その程度の幻想しかインストールされていなかった。

 

なぜ働かなければならないのか、生物的本能と現実(架空)とのギャップに疑問を馳せるのは至極当然の流れだ。

 

大学を卒業し、社会に出た。就職をした。

気づけば膨大な量の幻想がインストールされ、いつの間にか働く意味を考えなくなっていた。

高校生の時に感じた違和感は、よくわからないストレスというものに形を変え、ただただ膨張していく。

ストレスの奥底にある違和感はもう感じることができない。

ストレスが爆発したタイミングで会社を辞めた。

そしてフリーターとなり、ストレスフリーな生活を送っている。

同時に、再びあの違和感にたどり着いた。

幻想がインストールされる前の未熟な学生の感覚は、私たちが思っているよりも重要なことなのかもしれない。

 

それを知ってか知らずか、

私は「なんか学生っぽいね」と言われることが嫌いではない。

加えて最近はもう一度大学に行こうかと考えている。

 

 

 

 

 

 

バーチャルリアリティとの折り合いをつけなければならないのだが、

やはりどうしても、世間一般に言う"労働"はしたくないのだ。

 

何とかして活路を見出すために、私は今日も、Macを叩いている。

 

 

 

【4/13更新】満足度を上げるために如何に自分をコントロールするかについてめちゃくちゃ個人的な話をする。

 

私たちは自分自身をどの程度コントロールしているのだろうか。

 

常に理性的になるよう努めている人や本能の赴くままに生きている人、あるいは我儘に生きたいが理性に抑え込まれている人、もはや感情など持たない人、その按配はそれぞれだろう。

 

ダイエットをしたいがご飯を食べてしまう。

上司との飲み会はつまらないが我慢しよう。

どうしてもあの服が欲しいが今月ちょっと厳しいな。

なんかよくわかんないけどイライラする。

スタバでコーヒーを飲み、タバコを吸いながら本を読んで昨日の飲み会の写真をfacebookにupしたい、けど仕事に行かないと。

 

普通に生きているだけなのに、気づけばストレスだらけだ。

仮にストレスを溜めないよう本能100%で生きれば、

仕事に行かない暴力的な太っちょがスタバでfacebookを触り続ける羽目になる。

 

 

 

 

 

 

大企業に勤めている時、私は毎日のように「本能の赴くままに生きて〜」などと思っていた、いや、もう声にだしていた。

 

 

 会社を辞めて2ヶ月。

 

いま、私は、自由に生きている。

 

まさに思い描いていた、ストレスフリーライフスタイル、だ。

幸いにも、 スタバfacebook 太っちょヤンキーマンにはなっていない。

 

 

だがしかし、ストレスフリーの獲得は新たな問題が生んだ。

「金晩」を楽しむこと、それが全くできないのだ。

これは例えば金晩の話なだけで、別に金曜日の夜に限らない。

 

 もう大企業に勤めていた時ほど、休日に対するギャップを感じることができないのだ。

 

 金曜日の仕事が終わる瞬間、土日という希望に向かって全速力で走り出す、あのなんとも言えぬ快感を得ることが、私はもうできない。

 

絶望からのちょっとしたプラスへの急速な転換は、絶望の絶対値が大きすぎるが故に、

気付けば再現不能なものになっていた

 

どうすればあの快感を再び得ることができるのか。 

 

当時のギャップを

-100(平日)から3(金晩土日)への高騰とすれば、

今私はいつ何時も30ぐらいで推移している。

 

つまり、今私があの時の快楽を得ようと考えるのならば、

明日、突然133への暴騰を生み出す必要がある。

これは生涯通しても実現可能であるか甚だ疑問だ。

 

 

しかし私は思い付いた。

 

あえて自身をマイナスへ持っていくようコントロールすれば良い、と。

 

精神的にも肉体的にも、自分へある程度の負荷をかけ、突然負荷をとっぱらう、そうゆう風に自分をコントロールする。(別にしなくてもいいのだが。)

 

 

ところが、自分に甘々な私はこれ行うことがすこぶる苦手である。

眠たい時にはすぐに寝るし、腹が減れば何かを口に入れる、幸いセックスに関しては相手がいないので出来ないのであるが、肝心な性欲があまりない。

困った、本当に。

 

  

だから少しだけ、誰も見ていないこの場で、ささやかな宣言をしたいと思う。

 

明日からの一週間、私は以下を守って生活する。

 

1.朝ご飯、昼ご飯にはグミしか食べない。夜ご飯はサイゼリヤ可。

2.睡眠時間は1日6時間に抑える。 

3.毎日腹筋をする。回数は問わない。 

4.本を3冊読む。(読みたい本が3冊あるんで、時間的制約という意味で。) 

5.一週間後、再びブログに現れる。

 

 

 

とりあえずこんなもんで。

 

 

 

 

 

 

【以下、追記(一週間後)】

 

1.未達。

 はっきり言ってグミとサイゼリヤで一週間過ごすのは不可能である。

 理由は二つ。

 ・コメダ珈琲は朝11:00までに入店しドリンクを頼むとパンが無料でついてくる。

 ・肉を食わないと活力が出ないのだが、私はサイゼリヤの肉が好きでない。すき家で牛丼食べました。

 

2.達成。

 意外にも達成できた。各日の振れ幅は大きかったが、平均ちょうど6時間ほどだった。

 

3.達成。

 少し腹筋つきました。

 

4.未達。

 一冊しか読めず。サピエンス史(上)。なんなら下巻未購入。

 

5.達成。

 正直、特筆すべき面白い出来事もなかった。あまり人と会話をしていない。

 

 

 結論:日々の充実度は下がるどころか上がってしまった。つまるところ、負荷のかけ方を間違えたようだ。明日はゆっくり寝よう、とかそんなこと全く思わない。グミとサイゼリヤの制約を毅然と守るべきだったのだろうか。

 

人生に幸福行きのパケージツアーなどない、あってもかなり割高だ

「そうか、これでいいのか」

 

関西空港に向かうフライトの中で、渡辺匠はふと気がついた。

 

ゴールデンウィークを利用し、弾丸で中国を旅して回り、その帰途で旅の思い出を振り返っている時のことであった。

 

日本人の男三人旅の予定が、現地で中国人の女の子と仲良くなり、結局ずっと四人で行動するという何とも刺激的な旅であった。

 

本場の人もむせ返るような四川料理を食べ、中国人相手にgoogle翻訳を使って価格交渉を挑み、パンダや三国志など中国らしさのあるものを行き当たりばったりで堪能する。

 

友人の朝帰りを心配しながら就寝し、翌朝玄関の前で寝ている友人を発見し、クラブで白人達と踊っていたら帰れなくなった話を肴にモーニングをいただく。

 

四川という異国の地に、言語も通じない中、何も計画を立てずに足を踏み入れたものの、何とか4日間生き延びることができた。

 

トラブル続きだったが、そのトラブルが楽しかったともいえる。

そしてそれは自分にとって、非常に満足度の高い人生の営みであることに彼は気づいたのだ。

 

機内で翌日から銀行の営業部でせっせと働く自分の姿を思い浮かべ、その落差に絶望し、強く思った。

 

 

「いったい自分は何をやっているんだ」

 

 

その1ヶ月後、彼は上司に仕事を辞める旨を伝え、2ヶ月後には会社を退職することとなる。

 

 

 

「僕、実はこう見えて、エリートコースを着実に歩んできた人間なんです」

 

 

中国への旅行を面白おかしく話してくれた後、少し真顔になって、渡辺はそう言った。

 

小学校から塾に通い、中高一貫の私立の学校に進学し、現役で京都大学農学部に合格。

卒業後は誰もが知っている大手都市銀行に就職し、歴史のある大型の部店に配属されていた。

官僚を志したこともあったが、その硬直的な人事システムと再び勉強で自分の才能を証明するというプロセスに意欲が湧かず、就職を決意。

 

銀行で一生働くことはないと思っていたが、少なくとも3年はやるだろうという思いもあった。

 

「でもエリート意識みたいなのは、ほとんどなくて。ただ自分がやりたい、やらなきゃいけない、と思うことをやってきただけなので」

 

どこか納得のいかない、という表情で彼はそう続けた。

 

中学受験をしたのは、なんだかんだ地元で一番になりたいという負けず嫌いな部分があったから。

 

京大に進学したのは、その独自の文化とか、シンプルで美しい入試問題とか、京都での学生生活に憧れたから。

 

農学部を選んだのは、どうしても一度は大海で調査活動を経験したかったのと、女の子が工学部よりも多かったから。

 

ただのガリ勉くんにはなりたくなかったから、小学校も中学校も高校も野球部で最後まで活動したし、大学では勉強そっちのけで ボート競技に打ち込んだ。

そういう「意思とかこだわりが全て」の生き方をずっと貫いてきた。

 

 

「だから『何やっているんだろう、自分』って感じちゃうことへの耐性がものすごく弱いんですよね。もちろんそう感じる瞬間自体はたくさんありましたけど、問題が自分の側にあったので、解決できたというか。ゲームをせずに勉強をするとか、朝早く起きてトレーニングをするとか、面倒くさくても予定をドタキャンしないとか、そういった類の問題だったので」

 

それが社会に出てから、うまく解決できなくなったという。

 

あまりに下らないことが多すぎて「何をやっているのだろう」と感じても、じゃあ明日から気合を入れて頑張ろうとはならない。

 

先輩や上司や同僚がクソだと思っても、そこに自分の意見をぶつけてその人の価値観を動かすことができない。

 

偉い人の講話が校長先生の話並に面白くなくても、とりあえず聞いてA4裏表の感想文を8割程度あたりさわりのない内容で埋めることしかできない。

 

三角関数の公式を覚えた時も、一日に何時間もボートを漕いだ時も「これが何のためになるのだろう」という疑問は一切抱かなかった。

 

サインコサインタンジェントとひたすらに唱えたり、朝からただただオールを動かしたりすることの方が、仕事よりよっぽど内容がないというのに。

 

「銀行の仕事が下らないというよりは、銀行で働く明確な目的が見つからないというのが、一番の問題だったと思うんですよ」

 

お金は欲しいけど別にこの会社からもらう必要はないし、上にいって偉くなりたいなんて思いは1ミリもなかった。むしろ上に行って、楽に働きながらお金をもらっている人を見ては幻滅していた。

入社時は配属されたいと思える部署もいくつかあったが、もはや銀行の内部であればどこでも同じように見えた。

「じゃあ何のために日々暮らしているんだろうって。誰のためになっているか分からない仕事にひたすら忙殺されて、よく分からないけど生活だけ十二分に安定しちゃって、一体自分は何をしているんだろうって」

その葛藤は日に日に大きくなり、それが中国で表面化したのかもしれない。

 

だが、彼には社会人としての責任感が少なからずあった。

組織自体が大きすぎて、会社に迷惑がかかるというイメージは湧かなかったが、自分の担当している会社、そして自分が辞めたらその担当先を引き継ぐことになるであろう同期は確実に困る。それは確かだった。

 

しかし、同期は「いつ辞めてくれてもいい。多少仕事は増えるかもしれないけど、自分もこの会社に長くいる気はないから」と彼を励まし、担当先の社長は口を揃えて「自分たちのことは気にしなくていい。担当がコロコロ変わるのにはもうとっくに慣れているから」と言ってくれた。

中には「組織を抜けて会社を作って今までやってきた一人の人間として、若くして外に飛び出すその勇気をむしろ尊重する」と言ってくれる社長までいた。

 

もう彼を引き止めるものは、何もなくなった。

 

月末、次の月の営業ノルマを決めるミーティングが行われる前に、会社を辞める旨を直属の上司に伝え、その一週間後には部内で彼の退職が承認された。

 

「意外にもにもあっさりと認めてもらえたんですよね。その時の支店長が気をきかせてくれたのかもしれません。今でも本当に感謝しています」

 

 

その二週間後、渡辺は人事部に呼び出された。

退職まで残り一ヶ月を切ったタイミングだ。

仕事を早めに切り上げ、人事部のある本店に向かうと、そこで待っていたのはなんと就職活動の際、渡辺を採用してくれた先輩の高須であった。

その当時は人事部ではなかったが、渡辺の入行後、人事部に異動となり、今回の退職に責任者として携わるようになったのだ。

 

「さすがにびっくりしましたね。合わせる顔がないっていうか。気まずさも相当なものでした」

 

話は平行線をたどった。

これ以上頑張る気力がどうしても湧いてこないという渡辺と、もっと頑張って今の部店でちゃんと認められろという高須。

折り合いがつかないまま、時が流れていき、空気が滞りかけた時、渡辺は高須に対して一つの質問を投げかけた。

「『では今あなたはいったいどんな目標を立てて生きているのですか?』と聞いたんです。世間知らずのぺーペーがエリート街道まっしぐらの先輩に」

普通なら怒るだろう。誰に向かって言っているんだと。

 

だが、高須は少し間を置いて、素直に本音を語ってくれた。

 

「『家族を幸せにする良き父親でありたい。それで十分だ』そう言ったんです。その為に今頑張って働いていると」

 

素直に格好いいなと思った。

 

しかし、同時に今の自分には到底言えそうにないな、とも感じた。

高須と同じ年齢になった時、そのセリフをはっきりと言える大人になりたい。

そのためには、やはり今ここにいてはならないのだ。

 

「どうする?もう一度考え直すか」

 

高須は面談の最後に渡辺に向かって問いかけた。

 

「辞めます、すみません」

 

即答だった。

 

もし一年前に同じ面談があったなら、答えは変わっていたのかもしれない。

けれども、今の彼を引き止められる材料は、銀行にはもう残っていなかったのだ。

 

 

取材をしていく中で、旅行好きの彼らしいなと思った発言がある。

 

「就職活動はパッケージツアーだと思うんです」

 

財布には「京大」とか「体育会」とか「現役」とか「理系」みたいなお金が入っていて、予算内で自分の行きたいツアーを選ぶ。

メガバンクの売りは「安定」「世間体」「高給」に加えて「福利厚生」のセット。

電通だったら「ブランド」「やりがい」いまなら割引価格で、さらに「早帰り促進キャンペーン」もついてくる。

自分の財布の金額めいっぱい使っていいツアーを申し込む人もいれば、財布に余裕を残して、ツアーの最中に使うためにとっておく人もいる。

メガバンクに行く予算はあるけれど、地銀に入って余裕を持って仕事をしてもオッケーなのだ。

 

「でも、気づいちゃったんですよ。僕はパッケージが大嫌いな人間だって。自分でやりくりすれば、その半額ぐらいでその倍ぐらい楽しめちゃうって」

 

みんなが行きたい高いハワイで、ここに観光に行って、ここでご飯を食べて、ちょっと高いお土産を用意してもらって、「ね、楽しかったでしょ」とやられるのは全然魅力的じゃない。

それで帰ってきて「わーハワイ行ってきたんだ、羨ましい~」って言われても、むしろ戸惑うだけだ。

 

「それよりは、マニュアルみたいなのがない訳の分からない国に行って、色々とトラブルに巻き込まれながらも『何とかなったよ』って方がいいんですよね。人に話して自尊心を満たさなくても、自分の満足感が圧倒的であればオッケーというか」

 

大企業に入って幸せを実感することは、用意されたパッケージツアーを楽しむことに似ている。

それぞれに少しずつ異なる「幸せの形」が用意されている。

このタイミングでこれをやって、こうやってこうすれば、人生を存分に楽しめます、的な。

セットになっている分、お得だし、面倒なことは何も考えなくてもいいですよ、的な。

それをちゃんと楽しめる人にとっては、とてもいいことだと思う。

 

だから会社が悪いのではなく、用意されたものを楽しめない自分が悪い。

 

「本当にいい会社でしたよ。それは今でも思います」

 

多くの人が憧れ、入社したいと思うのも納得がいく。

 

「でもやっぱり割高なんです。そして、僕にとって何も考えないことは苦痛でしかない。それに気づいたんです。中国に行った時に」

 

あの時は好き放題動き回って飲んで食べて、そこそこ普通の宿に泊まっても航空券を入れた旅の総額は10万円を切っていた。

ゴールデンウィークに4泊もして、その価格で最大限エンジョイするのは国内でも難しい。

 

「 コストパフォーマンス」という言葉を使うとすごく薄っぺらくなるけれど、パッケージでは決して実現できない魅力が確実に、そこには存在する。

 

 

 

「これからもガイドブックに載っていない街を旅し続けます」

 

 

それがメタファーなのか、リアルな願望なのか、僕には分かりかねた。

 

 

ただ、知り合ってからそれほど時は経っていないけれど、

 

渡辺匠らしいな」

 

と感じた。

 

 

それこそが、彼が銀行を辞めてでも得たかった「何か」でなかろうか。 

 

答えのない想像を巡らせる。

何より大切なものを銀行は与えてくれない

銀行員というとどんなイメージがあるだろうか。

 

高給取り、真面目、安定、出世争い、最近では半沢直樹というキーワードも出てきそうだ。

 

一年半メガバンクで働いた経験から言わせてもらうと、その多くは間違っていない。

 

けれども、それだけでは分からない、もう少し深淵で生々しい部分があるのも事実だ。

本稿では、そこをできるだけクリアーにしてみたい。

 

最初に断っておきたいのは、ここで銀行のことを貶してイメージを傷つけたり、銀行はもっとこうあるべきだという企業論を並べ立てたりするつもりはないということだ。

自分が体験したリアルを文章に書き起こし、それを題材に何かしらの問題提起ができればと思っただけである。

 

加えて言うならば、最近のネットの記事は本当に面白くない。

読んでいて腹が立ってくることもあるほどだ。

検索されそうなワードを予測し、巷に溢れている情報を適当にまとめあげ、とりあえずクリックしたくなるようなタイトルをつける。

多くの人が「なんだよ」と思う記事を書いても批判はされないし、リピートなどもともと期待していないので、また新しい記事を書けばよい。

それはそれで一つのやり方なのかもしれないが、そういった類のものよりは具体的かつ本質的で、読んでいて「面白いな」と思う記事を書く自信はある。

 

前置きが長くなってしまったが、そろそろ銀行員の世界に足を踏み入れてみたい

 

***

 

私の知る限りであるが銀行には、

浮気して左遷された者

みんなに無視されて全く仕事をさせてもらえない者

怒鳴られすぎて耳が聞こえなくなった者

お金を不正に盗んで捕まった者

等々、色々な人がいる。

 

最近電通の社員自殺事件が話題であるが、銀行では毎年のように自殺者が出ている。

力技で隠蔽しているのか、それとも当たり前すぎて報道されないだけなのかは分からないが、実際私が働いていた時も「○○寮で人が亡くなった」という話を友人伝いに聞いた。

もちろん、その時行内で正式な発表などはなかった。

 

同期の中にはストレスで血尿になったり、頭がおかしくなって「もう来るな」と言われた者もいる。

 

これは僕自身が実際に見聞きしたまぎれもない真実であるが、そこに焦点を当てて「やれブラックだ」「やれ半沢だ」などと騒ぐつもりはない。

こういった社会の裏側的な部分は程度の差こそあれ、どこにでもあることだと思うし、だから早く辞めた方がいいと言いたい訳ではない。

 

ブラック企業=社員を長時間労働させた上で給料を支払わない会社”とするならば、むしろこんなにホワイトな会社はないだろう。

 

入ってすぐは給料が低く、昇給もそれほど速くないと言われているが、総合職は3年目までは年間150万円ほどのペースでほとんど差がなく昇給する。

病んだり、失踪したり、大事件を起こさなければ、誰でも年収600万円の世界だ。

いわば大学の授業と同じ出席点ゲーである。

 

少なくとも平日に合コンをしようと思えばできるぐらいの時間には帰れる。

 

全支店に食堂があり、寮も全国に完備、寮長やら管理人やら食堂のスタッフまでいて、クリーニングも取りに来てくれる。

 

宅配便は受け取ってくれるし、面倒な役所の手続きは全て代行してもらえる。

 

それが一般の人の光熱費ぐらいのお金で手に入る。

 

減っているとはいえ、退職金もたっぷり出る。

 

 

なんだ。

 

 

ただのスーパーホワイト企業じゃないか。

 

 

だけど、と思うのだ。

 

だけど、そのかわりに失っているものがあまりに大きい。

 

 

違うと思うことを違うと言わない。

 

変だと思ったことをまわりは無理して変じゃないと思いこんでいる。

 

その内、自分が「クソだな」と思われる側に回る。

 

この環境の中で自分の人生の半分を生きるという選択肢があるのか?

僕には到底理解できなかった。

 

まわりの人間が本来備えている感受性を少しずつ失っていく瞬間を見るのが、本当に辛かった。

 

ストレス的な要因で体や心が全く病む気は全くしなかったけど、悲しいと思うことがあまりに多すぎた。

 

 

ある時、同じ部店の先輩に「やばくないですか、この会社?普通じゃないですよ」と言ったことがある。

詳細は忘れてしまったのだが、上司の圧力で体と心が病んでしまい、行方不明になった人がいるみたいな話だった。

 

「まあでも銀行ではよくあることだからねぇ」

 

小声でそう言いながら、遠くを見つめていた先輩の寂しそうな横顔が今でも忘れられない。

 

繰り返しになるが、人が消えたとかイジメがあるとか、そういったことが問題だと言っているわけではない。

そこには個人差とか運とか相性とかいろいろな原因があるし、それを体験するのはほんのごく一部の人間で、ほとんどの人は普通に働いている。

上で述べたように過剰なくらい生活環境も整えられている。

 

問題なのは、自分の脳にふたをしてしまう習慣があまりに加速してしまっていることではないだろうか?

 

あまりにも下らないことが多すぎる中で、本能的にそれらから目を背ける習慣ができてしまって、そもそも下らないという感情を忘れてしまっていることではないだろうか?

 

もちろんなんでもかんでも反発するのはよくない。

空気を読むことも時には必要だ。

だけど、常識的に考えておかしいと思うことに関しては、少なくともそれをおかしいと思う権利ぐらいはあるのでは?と思うのだ。

 

偉い人のテンプレートのような話を聞いて、「なんか偉い人の割に、話普通じゃね?」と思いながら、でも目の前にはA4裏表の感想文の紙があって、それが誰に見られるのかは分からないけれど、とりあえず不安だからあたりさわりのない無意味な言葉を並べ立てる。

 

違うだろ?

 

「小学校の校長先生の話を聞いた時以来の眠たさでした」ぐらい書かかないと、あのオッサンたちの話は一生くだらないままで、そのうち自分がそれを話すことになるぞ。

 

パーティーの出し物をする前に、尺と内容を事前に上司に報告し、出し物として問題がないかを細かく確認する。

 

違うだろ?

 

「出し物はサプライズなんで事前にネタばらしすると面白くなりません」ぐらい言わないと、そのうちそれをチェックして下らなくする側にまわって、最後は当たり障りのない出し物を無表情で見つめる悲しいオッサンになってしまうぞ。

 

官僚が国のために死ぬ気で残業するのは、まだ分かる。

オリンピック選手がその一瞬のために努力している姿は美しい。

母親が子供を出産する時に苦痛が伴うのは自然の摂理だ。

 

だけど銀行員はそうじゃない。

 

半沢直樹の言葉を借りると、しょせん汚い金貸しじゃないか。

顧客の利益より、自分たちの利益を優先する、一営利企業じゃないか。

 

 

何が自分にとって大切なのかは、もちろん人によって様々だし、時と場所によっても変わる。

 

だけど、それを自分で定義できなくなったら、生物学上は生きていても人間としてはもう死んでる。

 

僕はそう感じてならないのだ。

 

日本という何でも手に入るすごく恵まれた国に生まれたのに、あれがない、これが嫌だ、でも仕方がないと、居酒屋でグダグダと人の悪口を言って溜飲を下げる彼らの姿が滑稽でならないのだ。

 

お前、インド人にしばかれるぞ?

 

そんな話に共感してくれる数少ない友達たちは、次々に会社を辞めていっている。

 

そんな時代です、今は。

 

***

 

外国人と話していて前職が銀行だと言うと、よく「大変そうだね」と言われる。

 

どう答えたものと悩む時期もあったが、最近はこう答えるようにしている。

 

「No,no. It's too easy. だってね、

YesとI am sorry だけ知っておけば、どんなに仕事ができなくてもクビにはならないもの。退職後も年金もらって悠々自適だよ。ね、いい会社でしょ?」

 

 

そして口には出さないけど、心の中でいつもその続きをこっそり唱える。

 

 

「でもね、心から幸せそうに働いている人を見たことがないんだ」

 

 

僕は辞めてしまった一人の人間として、自らの感受性を大切にし、人間らしく幸せに生きる義務があると思っている。